一つの認識描像

意識に関する素人的雑談

意識とは一体どういうものなのか。これについては古くから多くの哲学者が取り組んできたと思いますが、私も考えてみたいなあと。

問題がいくつかあります。まずは、的確な問題提起。「意識とは一体どういうものなのか」という問いはあまりにも漠然としているので、もう少し絞らないといけません。そしてこれも難しい。意識の何が知りたいのか。例えば「卵」。卵とはどういうものですかと聞かれたら、「殻で覆われていて条件を満たすと動物のこどもが生まれるやつ」という適当な回答を与えることができます。明確な定義でないにしても「まあ、だいたいあってる」くらいには答えられるはずです。そういう「概要」が知りたい。意識ってどんなの?という漠然とした問に関するだいたいの答えが知りたい。しかしまあ、それならwikiさんに書いてるし、自分がここで議論することでもないのかと。ちなみに意識とは、自分や身の回りの事象を認識できる状態のことという説明がなされています。不思議に思うのは、どうやってそれが与えられているか。つまり、「なにが我々の『意識』をもたらしているのか」というものが知りたい。意識が結果なのだとしたら、その原因が知りたい、といった感じですかね。卵の例でいうと、この類の答えを得たければ母体の体の仕組みを調べてどのようなプロセスで卵ができるのかを調べれば解決となります。それでは、どうやってこの問にアプローチしましょうか。ここでまた問題にぶつかります。「問題解決へのアプローチがわからない」問題です。現在未解決の問題には2パターンあって、一つは「解決方法はわかっているのに、現実的にそれを行うのが不可能(紐理論の検証など)」でもう一つが上に挙げたアプローチ不明パターンです。これは脳内の物質や電気信号の流れが理解できれば解決できる問題でしょうか?私はそれほど単純ではないと思っています。というより、それで納得できないのでないかと思います。これも問題の一つで、物質的な解決方法で得られた答えに対して、非物質的な現象である「意識」に関する問がうまく対応するのかというものです。実際我々は意識が物質ではないと思っていますし、ややこしいことに自分が意識を持っていることを意識することもできます。実は意識は物質的なものの作用からなるもので、我々が抱いている意識に関するイメージは幻想である可能性もあります。もちろん私はこの可能性は捨てませんし、正直一番すっきりしている答えだと思います。しかし、それにしては意識が複雑すぎるというのはあります。外部情報に対して反応するだけならまだしも、学習し、個体が違えば異なる結果を出す。そして思考というプロセスは実際に自身の行動を変化させているように見える。一番大きいのは、自分が意識を持って自分の意志で行動しているという自覚があること。まあ、結局決定論は論駁できる気がしませんけどね。ちょっと視点を変えます。一体なぜ、意識が必要なのか。これは、生命体としての機能であると考えられます。生存するために周囲環境に適応し、ストレスに対処し、長期的な目標のために努力する。これは自らの生存確率を上げ、負担を和らげ、不快な状況を避けるために必要です。生命でなければ意識を持つ必要はないように思います。もちろん、石が意思を持たないことは証明できませんが。つまりは、意識は機能であるといえます。生命体は初めは目に見えないレベルの単細胞生物でした。この頃は、外部刺激に対して機械的に反応していた可能性が高いです。一種の大腸菌の挙動の基本は「養分が多いところでは動きを抑え、養分の少ないところでは動きを早める」です。これ以外はランダムに動いているとすると、養分濃度の高い場所に長く滞在することで効率よく栄養を吸収できている事がわかります。これは外的環境に対する機械的反応と捉えられるでしょう。これが複雑化したものが我々の意識だとすると、我々の機能が高度なだけで実は機械的なのかも知れません。しかし、この複雑な反応というところに意識の根幹がある気がします。我々は「思考」を行います。これは我々が意識を持っていることを特徴づける非常に高度な精神活動だと思います。これは過去の記憶、論理関係などを考慮し、最善の選択ができるシステムです。これを生存ではなく、例えば知的好奇心の方面に活用すると例えばコンパクトなリーマン面に関する議論などが可能になります(できるとは言っていない)。人間の思考は、基本的に「類比」、「対比」、「因果」であるというのを聞いたことがあります。これらを組み合わせることによって、現状に対する最も有効な「反応」を物理的運動として外部に出力することができます。ここで大腸菌と大きく異るのは「記憶」と「論理」が存在するかどうか。例えば、食べ物が周りに沢山あれば、普通は食べます。しかし、現在「食べるべきではない」と判断する可能性もあります。大腸菌の場合は「エネルギー過多」かも知れません。我々人間の場合はエネルギー過多の他に、「食べたら太る」、「これらの食べ物は衛生面に問題がある可能性がある」などでしょう。大腸菌は現在の状況のみを判断材料にしますが、我々は「可能性」を考慮します。可能性は、例えば「過去の事例」や「論理的思考」によってはじき出されます。この例でいうと、「昔、カロリー気にせずにいっぱい食べて太った」とか、「食品が製造されて日数が経過すると、食品に付着した菌が繁殖する。その結果、食べたときに食中毒に遭うリスクが高まる。」などです。食中毒の話などは、自分が経験したことがなくても警戒すると思います。また、虫に嫌悪感を示す理由の一つも、この警戒ではないかと考えることができます。つまり何が言えるかというと、我々の意識を特徴づけているのは我々の持つ「記憶と論理を使う能力」ではないかと言うことです。自分が同一の人間であることも記憶と論理から導き出せるので、自己同一性の認識もここから生まれてくると言えます。我々に備わったこの能力が、意識の本質なのかも知れません。まあ、素人の戯言なんで鼻で笑ってくださいな。