一つの認識描像

子育ての難しさの一つとしての、目を閉ざすことの難しさ

人に何かを教える、子供にやってはいけないことを教える・・・。私たちは、様々に教える機会を持ちます。このときに難しいのは、「相手がなぜわからないのかが分からない」という状況です。普通に考えたらわかるだろ、ということを相手がわかっておらず、説明してもあんまり分かってくれない。このようなことは、特に子育てで起きうるのではないでしょうか。どうして子供がやってはいけないことをするのか、もしくは、しなければいけないことをしないのか。普通に考えればわかるはずなのに・・・。このような考えを持っていると、最終的に「もっと自分で考えて行動しろ」と言ってしまいます。しかし、相手はそもそも「考えるために必要な土壌」を持っていない状態なのです。大人が行っている認識や思考と、子供が行っているそれは大きく異なります。大人も昔は子供でしたが、多くのことを「知らなかった」ときに自分がどのような思考を行っていたのかを理解するのは難しいことです。
子供の認識というのは、ある意味で純粋であると考えられます。我々は多くの経験から、何をすべきで何をしてはならないのかを理解しています。しかし、子供はそのような経験も知識も乏しく、行動の理由すらも自分の中ではっきりしていないことがあります。なので、子供からすればなんとなく過ごしたり遊んでいたりしただけなのに、なぜか怒られているという状況が発生します。「もっと自分で考えて行動しろ」というのが、いかに無意味な言明かがわかります。
その上、子供は認識が非常に狭いです。これは、物理的な視野の狭さというのもありますが、例えば認識する時間のスケール(未来や過去のことをあまり考えない)や、認識する影響のスケール(リスク、コスト、それが誰にどのような影響を与えるのかなど)が小さいということです。このような認識上の「制限」がある中で、大人と同じように判断しろなどというのは正気の沙汰ではありません。

では、子供に教えるときにはどのようにすればよいのでしょうか。これは、子供と会話するのと同じように、「目線を合わせる」というのが大切になってきます。そして、これがとんでもなく難しいものなのです。
認識上「しゃがむ」というのは、「自分が可能な思考に上記のような制限がかかっていたならば、どのように説明されれば納得するか」ということを考えることで達成されます。つまり、子供が何かいけないことをしたときには、「なぜこんなことをするのか」ではなく、「このようなことをしてしまうのは、どのような認識上の不足が存在しているからなのか。そして、そのような制限のなかでどのような説明を行えば納得してもらえるだろうか」と詳しく考えなければならないということです。これは、自分が見えているもののうち、子供の行動を説明するために「何を見なければよいか」を理解し、そして実際に見ない状態を仮想的に実現して、その上で考察するということになります。このように、見えているものをあえて見ないということで「目を閉ざす」と個人的に読んでいるのですが、これを実現するのは難しいものです。少なくとも私はそう思います。

もしこれがうまく達成できたとしても、先程言ったように認識のスケールが小さいので、同じミスをしてしまうこともあります。これは、仕方のないことなので、根気よく何度も説明し直すしかないと思います。こう考えると、親というのは論理的な思考と根気がなくては務まらないのだなあと感じます。もちろん、専門家でもない人が書いたネット上の信頼に値しない情報ということで、その点はご理解ください。