一つの認識描像

無償の愛をこの世界に存在させてみる

無償の愛なんてこの世界に存在するのでしょうか.ある人は言います.見返りを求めずに誰かに尽くすというのが無償の愛だが,結局のところ対象人物が喜んでると自分が幸福になるから愛することができるのであって,それは無償とは呼べないのではないかと.なるほど,確かに無償の愛というのをそのくらい強い意味で捉えているのであれば,そんなもの存在しないのかもしれません・・・.

本当か?

存在しないならば圧倒的な力によって創り出せば良い.さあ,この世界に無償の愛を認識してみせよう.
まずは「愛」についてである.これは,主観的な問題である.愛するものと愛されるもの,この両者に愛という認識が発生する.よって,無償の愛は実は「愛する側」と「愛される側」のいずれかのみに発生して良い.「自分が愛されている」という認識のみでも,愛の存在を認めることができるということだ.
さて,それでは「愛される側」が見出す愛に絞って話を進めよう.ここで,無償の愛を実現するためには「自分が見返りの期待されない愛情を受けている」と認識すれば良い.そのためには,「自分を愛している対象が自分を愛していなければ良い」のである.・・・は?と思われた方もいるだろう.しかしこれは,理に適っている.

まず,人に愛されているとしよう.このとき,自分を愛している対象はどうしても見返りを認識してしまう可能性がある.こうなると無償の愛を実現できないのだ.ならどうすればよいか.そう,自分を愛している対象が認識主体でなければ良い.
一例を紹介しよう.個人的な話だが,私は自然に愛されていると感じることがある.科学的に言えばそんなわけないのは重々承知しているが,これは主観的認識の問題なので自然科学と競合するものでは無い.なので,私は「愛される側」として「自然からの愛」の存在を認識していることになる.さて,自然側はどうか?・・・.自然側は何も感じていない.そもそも感じるとかそういうことが定義できない対象物である.そうであれば,もちろん見返りなんていう観念も無い.ここでの状況を整理すると,私は自然に愛されているが,自然はそもそも認識主体でなく,特に,「自然は見返りを求めていない」という主張が正しい.

これが,無償の愛です.