一つの認識描像

視覚的情報から一種の概念的認識を非論理を基礎に構成する

0. まえがき(自明な認識と正しさの困難)

認識は,自明に存在します.これ以外は存在しないか,もしくは全て認識です.例えば認識主体は存在せず,全体的な認識のうちの部分的なものが認識者と被認識者として扱われ,これが認識主体の認識となります.なので,全概念を自明な認識から再構成し直そうというモチベーションは非常に自然です.しかし,私の認識は入り乱れて複雑であり,これらを分かつというのもいくつかの方法があり,しかも分割するというのは状況の認識の生成であるため,認識は「それをよく見ようとすると変化してしまう」という難点を持ちます.
よって,そもそも考えるということ自体が大胆な切り捨てと単純化,そして視野狭窄を含まざるを得ないものであり,そうでなくては思考するための認識局在構造(何が正しくて,何が誤っているか)はいつでも揺らぎます.揺らぐことは自然ですが,これでは一切前に進めません.これが正しくないという可能性を理解していてもなお,自身の課した仮定を可能な限り明晰に認識した上で考えるということは,無価値ではありません.なぜなら,そのようにして生み出された認識自体の存在はその自明性によって担保されるからです.仮定を入れることは非論理的なプロセスですが,体系により精緻な構造を発生させることがあります.これは,数学を学べばよく分かることと思います.
以下では,視覚的情報を基に概念的認識を構成します.なぜ「概念的」であり「概念」ではないのかというと,我々が認識する概念というものとはやや異なる「lift」という認識を終着点としたいからです.そもそも概念認識の構築は謎です.これは,その過程が謎というのもありますが,どちらかというと「構築」というのが既に因果的認識を仮定しており,因果的認識はいつでも懐疑できるのでどうしようもないのです.なので,ここから話すのは「真実」ではなく,いくつかの仮定をおいた上での単なる状況的説明に過ぎないとして,積極的に軽んじてください.もちろん,私は素人ですので論理的にも甘い部分があったり誤りが含まれている可能性も十分にあります.その点もご了承ください.

1. 認識発生の種類

認識改変の認識について,簡単に説明します.ある認識A, B, Cと,「もしBが存在しなければAは存在し続けただろう・もしBが存在しなければCは存在しなかっただろう」という認識があると仮定します.Aの認識が存在したと仮定します.このときBの発生の認識の存在と,Aの消失の認識の存在,Cの発生の認識の存在があるとき,「Bにより,Aは消え,Cが発生した」という因果の認識が発生すると考えることが可能です.もちろん,この認識が構成されるためには信頼の認識や認識流動などに言及しなければなりませんが,一応の説明にはなっていると思います.なぜこれが可能なのかというのを一切の懐疑を受け付けない形で一意に定めるのはおそらく不可能で,「なんかしらんけど,そういう認識が発生するように認識される」とせざるを得ないと思っています.
なので,言及せずに公理的に扱う部分として,まず認識が変化するという認識,認識が発生するという認識,そしていくつかの「生得的に」存在すると仮定される術(すべ)を設定したいと思います.以下にまとめます:
0. ブラックボックス的な仮定として,「認識改変の術が存在し,それが認識の変化を引き起こす」という仮定と,これを仮定できるまでの仮定を置きます.
1. $\text{bord}(A; T)$: 視覚的情報の認識Aが与えられたとき,縦横に視点を動かした時に変化の少ない部分と変化の大きい部分を認識して,認識の位相(どのくらい細かく変化を見るのか)Tに応じてAの中に見出される境界の認識を取得します.このとき,クオリアの変化やその相対的強度は自明に分かるとします.また,認識Aの部分を認識するという「部分的認識」の存在は仮定します.これは,因果的認識を以て構築することができるのですが,ここでは割愛します.どのくらい細かく分けるのかを決めるTはA以外の認識状態にも依存します.以下では簡単のため,$\text{bord}(A)$としてTを省略し,単に「境界の取得」と捉えます.
2. $\text{part}(A, \text{bord}(A), 1)$: 視覚的情報とその境界で区切られたいくつかの部分のうち,一つを特に目下の認識として捉える術です.どれが選ばれるのかはここでは気にしないことにします.簡単に,$\text{un}(A) := \text{part}(A, \text{bord}(A), 1)$ と書くこともあります.
3. $\text{rem}(A)$: 認識Aの再認識の認識です.つまり,想起や記憶参照の認識に相当します.このとき,認識の度合いがどの程度明晰か,その認識自体がよく認識されているかのラベルは特に考えないこととします.ある認識が想起されているものであるか否かは,自明に分かるとします.
4. $\text{sim}(A, B)$: 認識A, Bが類似しているという認識です.類似している,相異なる,またその相対的な程度は自明に分かるとします.
5. $\text{mul_sim}(\{A_{k}\}_{k},\{B_{l}\}_{l})$: 複数の認識$\{A_{k}\}_{k},\{B_{l}\}_{l}$が類似しているという認識です.いくつかの認識が「比較可能である」ということ,ひいては「関連しうる」という"接続"の認識は自明に分かるとします.
6. $\text{lift}(A)$:  Aは類似認識$\text{sim}(\cdot)$のいくつかの集合であるとします.このときにこれらを集約して一つの認識として扱う術です.これは,類似性によって認識をまとめた個の認識であり,概念のような振る舞いをすると期待しています.

2. 構成

以上に定義した認識値函数を用いて,視覚的情報の集まりからliftまで繋げていきます.とは言っても,複数の視覚的情報について上から作用するだけです.
まず,視覚的情報列$\{A_{n}\}_{n}$を用意します.これの部分認識の想起認識と,新たな視覚的情報$A_{0}$のうち類似している部分列があって,「類似してるなぁ」という認識 $\text{sim}\left(\{\text{rem}\left(\text{un}\left(A_{n(k)}\right)\right)\}_{k},A_{0}\right)$を持ちます.これを多数集めたものを$S$とします.添字をめんどくさがらずに書くと,$$S=\left\{\text{sim}\left(\{\text{rem}\left(\text{un}\left(A_{n_{l}(k_{l})}^{(l)}\right)\right)\}_{k_{l}},A_{l}\right)\right\}_{l}$$となります.このうち,その複数の想起認識が類似している部分集合を$S_{0}$とします:$$S_{0}=\left(S\mid \text{mul_sim}\left(\{\text{rem}\left(\text{un}\left(A_{n_{l}(k_{l})}^{(l)}\right)\right)\}_{k_{l}}, \{\text{rem}\left(\text{un}\left(A_{n_{m}(k_{m})}^{(m)}\right)\right)\}_{k_{m}}\right),\ l\neq m\right)$$ここまでで,$S_{0}$は「今までの『なんか似てるなあ』という経験がいくつかあるけど,その似てると思った対象も類似してるなあ」という認識の集合になっているはずです.よって,これをひとまとめにすれば概念っぽくなるだろうということで,$$\text{lift}(S_{0})$$とします.

3. おわりに

ここで行ったことは,概念の認識の構成についての仮定と説明を記号的に行ったのみであり,主張自体は単純で陳腐にも思えます.これは無数にある認識のうちの一つの局在に過ぎませんし,私が正しいと主張することは決してありません.正しさとは他の可能性の十分な棄却であり,懐疑とは他の可能性を見出して指摘することであると考えることができます.故に,何かが正しくないと批判するのは簡単で,特に未知の認識を用いればほぼ全ての事項を懐疑できると思います.それでもなお議論に進展を見出したいのであれば,完全な正しさを持たないことを承知の上で何かをとにかく作ってみるということが重要なのではないでしょうか.それは,認識を実際に変化させます.それは,より詳細な構造を与えます.何より,楽しいのです.だから,軽率にやってみるというのは案外悪いことではないのかもしれません.
ちゃんと聞いてますか?他でもない,この文章を書いたあなたに言っているのですよ?