一つの認識描像

「価値の創造」の3つの実現

もっと多くにまで拡張可能かもしれませんが,取り敢えず3つにします.

1. 既存の体系に則る

一般にはこちらであろうと思われます(今回の記事で主張したいことではないので飛ばしても良いです).「既存の体系」というのは,例えばこの現実で言うと我々が備えている自明な価値ー快楽と苦痛≒誘引と反発ーです.この最も基礎的な部分があって,これを刺激する新たな方法を生み出すことが「価値の創造」と呼ばれると考える事が可能です.今までになかった便利なサービス,無くても生きていけるけどあると生活が快適になるもの,という感じです.これはどちらかというと,経済的な性格を強く帯びています.

2. 既存の体系をある程度足がかりにして,自らの価値体系を変更する

もっと主体的で社会構造に依存しないものとしては,自らの価値体系を変更するというものが挙げられるでしょう.我々には快楽と苦痛という,「価値のお試しセット」のようなものが備わっています.なぜ「お試しセット」と言ったかというと,これは変更することが可能だからです.快楽・苦痛に取り合わず,自らの達成したい目標に取り組む.これは確かに自明な価値への還元が可能なのですが,還元が可能だからといって全てを統合できるわけではありません.認識というのは明晰に扱うのは難しいものです.ある認識はそれ自体で意味を持ち,それについて考えるということは考える対象自体を改変してしまっている点に注意しなくてはなりません.例えば,「マラソンで一番になりたい!」と思って必死に努力したり大会で走ったりしているとき,「なぜなら一番になれば承認欲求が満たされるから!」という部分まで明白に認識が及ぶことは全く必然ではありません.外部からの分析でそのように説明されうるかもしれませんが,主体的な認識はただ一番を目指している,ここで価値判断のカットオフが入っていると考えることができます.
ただ,もちろんここに自明な価値が一切関与していないかというと,そんなことはありません.学問に打ち込むとき,「自分の興味のある事象について詳しく知りたい」というカットオフで行動することができますが,そもそも「興味を持つ」ための認識構造が備わっているからそれが可能である,と因果的描像をとって説明可能です.その惹き込まれる感覚,それ自体は現実によって与えられたものであると考えることができます.
以上を踏まえると,自明な価値・外的に与えられた価値構造というのは確かに現象の因果的説明に顔を出すが,そこを明晰に認識されない状態で何らかの事象に価値を見出す事が可能であると結論できます.因果認識がこの現実において実効的である以上既存の体系を足がかりにしていると言わざるを得ませんが,それでもなお単に快楽を求める・苦痛を避けるという認識を超越した価値構造を得ることができていると言えるでしょう.
この議論は,あまり良い議論ではないかもしれません.少なくとも,因果議論が非常に強い正当性を持つ,とみなさんが思っているのであれば,腑に落ちるものではないでしょう.そんな方は,以下の記事を読んでみてください:

みんな既に4次元を認識していて,因果はいつでも懐疑できる. - ?

3. 自明な価値と異なるがそれと同等以上の認識構造を創造する

これは未到達の領域で,現状私にはどうすれば達成できるのか分かりませんが,いつか到達したいと考えています.どういうものかというと,快楽・苦痛とは異なるが自明に分かる認識で,価値(もしくはそれをより一般化した概念)に対応する機能を持つ認識の構造ということです.誘引と反発を超え,従来の価値概念を超え,今のところ全く想像もつかないところにあります.これはもし分かったとしても原理的に説明不可能なものになりそうです.現実を逸脱した認識,異常な認識の活用も厭わず,新たな存在状態を模索していきたいと思います.