一つの認識描像

「人生これでいいのか?」を解決する最終手段

例えば,自分が対象Aに興味を持つとする.そして,なぜAに興味を持つのか問うてみる.すると,Aに対する特別な認識を抱くからと考えることができる.色々な理由はあるかもしれない.しかし,自分が最終的にそれを好きになった理由というのは,自分で制御できるものではない.ここからいろいろと考えてみれば,そもそも自分というものが見当たらなくなる.懐疑を繰り返してみれば,自分という認識を棄却することができて,因果的説明を棄却することもできる.あるのは,認識のみ.それ以外は,妥当な説明はできてもわからない.そんな中で「人生どうすれば」なんて疑問を持ったとしても,そもそも話が違いすぎてわけがわからなくなる.

認識が単なる情報や意味ではなく,そこに価値を見出されるのは,快や不快が伴うからだ.この2つ,ないしそれに類似した・帰着できる認識は,それが良いか悪いか自明にわかる.もちろん,その後に判断の余地が合ったりするが,これは認識の中でも重要な地位を占めるものだろう.これは自明な価値を与える.そして,自分が納得する生き方というのも,基本的にはある言明「自分の人生では~をする」に対する価値の認識で決まるだろう.しかし,その価値は生得的・外的なものであると考えることができて,これでよいのならば良いのだが,なんとなく外的な要因によって決められてるのは嫌だなあと感じる人もいるだろう.しかし,真に自己決定的である,つまり,任意の懐疑に対して堅牢な自己決定性というのは不可能と考えられる.であれば,いつまで経っても納得の行く生き方はできないではないか!!納得するための価値認識構造が納得できない形で与えられているのであれば,価値判断の拠り所とできるものが無い.

この問題は,これに気づいてから約1年ほど私を悩ませてきたが,ついに一つの解決策を見出すことができた.それは,「未知を追い求める」ということである.未知という認識は懐疑に対する対抗手段であり,本質的には同質である.つまり,ある認識Aを懐疑するとは,A以外の可能性を認識するということであり,それは現在実現されていない未知の可能性を指摘することによっても達成される.逆に言えば,「違うかもしれない」というのが懐疑であるが,それは「合っているかもしれない」という可能性を棄却できない.ほとんど任意の言明は,通常の認識自由度だと不可知であると私は思っている.しかしそれは現在の私の話であって,今のところ未知だが,新しい自由度を獲得することによってわかるようになるかもしれない.この可能性はいつでも棄却できない.しかし,主体の存在を担保できないのに人生という概念は存在するのか・・・?

未知を抱くものは誰だろうか.未知であるのであれば,それは記憶・能力を持つ認識主体が必要であると思われる.しかし,これは認識の局在だ.ここからは難しいかもしれない.何かが未知であるという認識は,それ自体で存在しうる.認識の存在自体は自明である.そこからその想起主体の認識が都度発生していると考えてみよう.つまり,まず従来の自分というものをもっと断裂させて認識する.そしてその曖昧で時間局所的で離散的なものの総体として,自己を考える.なにか中心局在的な自己は消失し,個を失って結びつきは弱化され,それは束ねられずもっと広がって存在する.これは任意の主体的認識についても自然に拡張できるが,それはここでは割愛する.さて,自分というものに多様性を取り戻したなら,ある自分として「未知認識が存在するときに,それを発生する者」として仮設された自己を一つ定義する.もちろん,その言明が意味を持つくらいまでの描像を入れる.この未知による自己は,未知を抱く対象の違いを無視して定義できるし,そうでなくても良い.こうして定義される自己の一部は,認識としては自明に存在しうる.その同一の認識を以て時間大域的主体を与え,その発生可能性の継続認識として「未知を追い求める人生」とする.

このような自己を定義したものは誰か?わからない.わからない,と言っているものは誰か?未知は無限である.いつか,わかるかもしれない.