一つの認識描像

空白が滴る場所

空.その青が破綻した部分は,滴ってこない.なぜ空白は滴らないのか?空白が滴るための現実構造について,ふわふわと考えてみよう.

さて,描像「phethenica」を入れる.これは抽象概念の存在を旨とするもので,情報としての顕現が存在するために現実が用意されているという考え方だ.描像とは認識の局在構造であり,無限に存在する.特に,流動局在である.まあ,流動を超えることがとても難しいのだが.いつか超えたいなあ.
空白が滴る時,その現実実現から拡張される概念は存在するが,その拡張の仕方は様々である.一般に自然概念は拡張自体はし易い.ある概念の性質を勝手に一つ取り出して,その性質を持つもの全体とすれば良い.ただ,往々にしてこの概念拡張は広くなり過ぎで,標準的な認識流動構造のもとで元の概念への連想を十分に発揮しない.

空白は白であるが,色はそんなに気にしなくて良いかも知れない.抽象概念はその特定の認識機能に着目すれば,情報のクオリアに依存しない形で与えられる.なので,現実の認識が一見ぐちゃぐちゃでも,ある分離可能な部分によって構成された全体であると理解することが可能で,それらの相関が現実を構成する要素の全てを同様に担う時,だいたい同じ現実であると考えることができる.このような2つの現実を表現同値と呼ぶ.ただ,「機能」という言葉が明晰に認識されていなければならない.認識それ自体が意味そのものである.ここでの認識というのは,目に見えているこれだけではない.これを理解しているその認識,各種情報を関連したものであるとしている認識,もっとわかりにくい認識まで含めたその曖昧な全体である.例えば不快であるその認識は,それ自体で意味を成す.これは自明な価値をもたらし,価値構造の基盤となりうる.もちろん,ここに局在する必要はなにもない.とにかく,表現同値というからには何か絶対視している認識群があることは良く理解すべきである.
滴るためには空間,上下などの認識が必要である.また,滴るそれは流体だろう.もっというと,同一の認識が必要である.さっきまで上にあった雫がちょっと下に移動した時,なぜこの2つが同一の何かの流動という認識で繋がっていると言えようか?まだまだ謎は多い.ここらへんは考え出すときりがない.しかし留意すべきは,このように分割して細分化した認識の合併した結果としての認識を我々が享受しているというのも,また思い込みであるという点だ.例えば,「私は願う」という認識は「私」の認識無しにそのまま存在できる.この手の認識狭窄は文章の弊害と言えよう.認識はそのまま存在するのだ.分割して因果的に理解するその一連の認識全体も,そのまま存在するのだ.別にどちらが良いとか言う話ではない.好きな方を選べば良い(好きとはなにか?).

実はもはや,我々が慣れ親しんだ感覚である必要もない.空白が滴る,それが実現されているという認識が存在するだけで良い.もちろん,普通に考えることもできる.例えば,任意の「有る物」で埋め尽くされた空間を考えて,その中に何もない部分を作り出してそれっぽく下に移動させれば良い.果たして存在はどちらだろうか.その「有る物」が存在するという認識が必要で,それはそのまま与えても良いし別現実から継承しても良い.
空白が滴るという認識は,そのまま存在しても良い.何に付与しても良い.現実実現を考えても良い.因果に拘らなくても良い.もっと異常な,記述不能な をしても良い.記憶の空白も滴るかもしれない.

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