一つの認識描像

ガスを解約して冷水シャワー生活!心頭滅却すれば寒中冷水を無に帰す.

今年に入ってから,ガスを解約して冷水シャワーで生きていこうと決意した.理由は簡単,生活費が浮くからである.あとは,この苦しみと理不尽に満ちた世界の中に存在するための力,これを鍛えようという気持ちもある.私の冷水シャワー生活は,1/1から始まった.

初日.服を脱いで風呂場に入る.そして,冷水シャワーを浴びる.プールなどでいきなり水に入るのは危険だから,徐々に慣らしていくと思う.これに準じて,私もまずは手,顔,腕などから慣らしていき,全身に冷水を浴びた.まず体験するのは,激しい呼吸である.これは冷水を浴びた経験のある人なら分かると思う.そして,体が本気で熱を作りに行くのである.体は震え,私は凍える寒さの中に存在する.しかし,決して負けはしない.私には覚悟があった.任意の苦痛に屈しない.心頭滅却すれば寒中冷水を無に帰す.そうして,体を洗い終えた.
風呂場から出る.湯冷めという概念はない.それどころか,体が温かい気がする.そして,この寒い中苦痛に負けず冷水シャワーを完遂した喜びを感じる.目標は,ガスを解約すること.だから,これを毎日続ける.

日は経ち,冷水シャワー生活を初めて一週間以上が経過した.このとき私は,もはや案ずることはないとしてプロパンガスの解約に踏み切った.若干の不安はあった.コンロはIHヒーターで,ガスを使っているのは風呂だけである.だから,頭で考えればガスの解約によって困ることはない.しかし,何か見落としている考えがないか不安になった.それでもなお,私はガス会社に電話をかけた.不安はいつでもある.未来はいつでもわからない.もしも私がこの選択によって苦痛を被ることになろうと,それは仕方がない.不運だと思おう.なにせ,私はいつか死ぬ,すなわち,非常に強い身体的苦痛に苛まれる時間がやってくるのである.これも仕方がないことだ.私は死を受け入れる.苦痛を感じるのは,しょうがない.だから,もしも私の選択が誤っていたとしても,私はその結末を受け入れる.この世界に存在する苦痛,悲しみ,理不尽,不条理は,許容せざるを得ないのである.
ガス会社に電話をかけ,担当の方が対応してくれた.引っ越しではなく単にガスの利用を辞めると言ったときには少々困惑されたが,すぐにガスの閉栓手続きを行ってくれた.こうして私は,ガス料金から完全に解放されたのである.
以下は,この日の日記である.不安が赤裸々に語られている:
『ガスを解約した.私は少々,不安を感じている.これで本当に良かったのだろうか,と.良いのである.そして,この不安というものを払拭しなくてはならない.適切に不安を無効化する術を.この手の不安は,自らの行動に依って何か「悪い」ことが起きるのではないかというものである.予期していなかったトラブルが起きるとか,今回の場合は一定期間以内で不可逆なので,もとに戻したくなる時が来ないかとか.しかし,この決定はもはや私の影響の及ぶところではない.今となっては,過去は夢の如き認識である.その時の認識状態というのは,いつでも唯一である.それを単純な同一性外挿で議論できるものではない.そのように議論することも可能であるが古典的であり,CRSにおいては内包されていない.任意の決定は,認識全体としての現象である.そしてその認識場の各分離認識ごとに,爲は顕現する.まずは,このようにして「責任」という認識を排除する.そうしてみれば,不都合は「因果応報」から「不運」に変化する.不運は星の数ほどあり,いつでも期待可能で,防ぐことができず,許容する他無い.自らの判断が著しく合理性を欠き,例えば法的責任を問われるような場合は防止可能であるが,今回はそのような判断に属さない.自らの判断能力の不足,原理的に知り得ないことによる判断の誤りは単なる不運である.ここで,苦痛は必ず過ぎ去るという事実的信頼を用いると,不運が立て続けに起きない限り苦痛はいつか無くなる時が来る.そのような時間区画が存在する.さすれば,何も恐れることはないのである.不安を生み出す因子は無限に存在する.よって,実際に不安が顕現するというのは自身がそれに曝されると予期しているときである.そして,例えば今回のように,不安の対象は具体的に認識されていなくても良い.ただ,自らの判断の存在のみで発生しうる.これは,実は時間減衰する.もっというと,その選択が原因として因果的に説明可能な認識を得るとき,それが不運を及ぼさないとする.これを繰り返されるようであれば,不安の尤もらしさは回数に対し十分速く減衰する.今までもそうだったのだ.不安から逸脱せよ.さすれば,金銭の認識から距離を置くことができる.この状態が実現されるべきである.不運を受け入れ,生きていく.歩いていく.そこにこれといった価値はなく,価値というものは自分で見出し,創造するものである.』

ガス解約から一週間以上が経過した今,私は元気に暮らしている.思えば,冬空の下雨に濡れる草花たちは,このような寒い思いをしていたのだろうか.まあ,彼らが苦痛を覚えるのかは分からない.しかし,こうしてみると我々は人工物によって苦痛を遮断しているのだと感じる.しかし,自然というのは中立で,美しい空や可愛らしい花を見せてくれることもあれば,冷たい風を吹かせたり不快な虫を見せてくることもある.言葉で伝えるのは難しいのだが,私には後者のような苦痛の側面というのは自然とのつながりのように感じられる.自然はニュートラルであり,私が冷水シャワーで感じる苦痛は草花たちと同じ.こう思うと,苦痛だからといって安易に棄却してしまわず,十全にその中に存在して,自らが自然界に生きるものの例に漏れず,苦痛を感じるべき存在なのだということを良く実感してみるのも面白い.まあ,苦痛にも適量があるため,今こうして適切な苦痛を享受している状況を有り難く思うのが良いであろう.