一つの認識描像

痒みとの格闘

私は夏が苦手だ.アセチルコリン性蕁麻疹が出るし,部屋には虫が出るし,何より暑い.人の体温は36度を超える.故に私は歩く常夏で,自分自身の熱の影響を回避できない.冬は自分の温かさが好きになるのだが,夏は自分が鬱陶しい.暑さは不快で,寒さは苦痛.私は後者については楽しむ術を見出しているのだが,前者はまだまだどうにも好きになれない.そして今,体が痒い.これと戦わなくてはならない.

痒みの原因は痒いところをかいてもなくならない.それどころか,皮膚へのダメージを著しく高めてしまう.なので最善手は,炎症が引くまでかかないこと.これを目指してゆこう.そのためにまずは,無意識に炎症に手が伸びるのを阻止せねばならない.自分の身体は案外私の司令ではなく,それに見せかけた自動的応答で動いていることも多い.自分の行動を完全に支配することは,意識してみると非常に難しい.

痒みに対抗する手段を練るべく,一度「恐怖」について考察してみよう.私はボロアパートの一回に住んでいるので,毎年夏になると一部の不運な虫さんが部屋に入ってくる.そして不運な私は,それにいちいち恐怖しているのである.彼らはあんなにも小さく,特に毒もなく,噛みもせず,明らかに恐怖に見合うリスクはない.私には知識があるし,今ではネットで検索すれば適切な対処法はいくらでも出てくる.本当にリスクを排除するためには,恐怖するよりも冷静に対処するほうが圧倒的に理にかなっているだろう.というか,もはや現代社会におけるほとんどの恐怖は,それ故に動けなくなったり回避行動を取るよりも冷静に対処するのが良い.なら,恐怖,要らなくないか?リスクアセスメントに関してはガバガバ過ぎるし,もはや遺伝子に刻まれた壮大なボケのような気もしてきた.そうか,ツッコミ待ちだったのか.
冷静なツッコミのため,まずは恐怖を良く観察して身体反応と精神的反応に分割してみる.ここに私が絡む必要はない.筋収縮,覚醒度の上昇,「恐怖」に対応する特徴的な感覚の存在,などなど,これらの機械的応答を俯瞰する.そして,これを以て意味としないことを可能とする.どういうことかというと,例えば心身に上記のいつもの恐怖反応が出た時,それに取り合わず,「単にそのような認識があるだけ」として自分と切り離す.私は知っている.その反応の原因となったものは,実際には恐怖しても取り除かれず,そもそも恐怖するまでもなく,知識を参照して冷静に対処すれば良いということを.恐怖反応自体は存在しても良い.しかし,その対象は自己の本質的な部分の脅威には絶対になり得ない.これを繰り返し意識していく.そして,自分の心身に問うのである.知識って,知ってる?

さて,痒みに話を戻そう.私は,かかないほうが賢明であることを知っている.ならば,土着の機械的心身反応へ優越して炎症へ手を伸ばす自分を制止するまでである.痒みも恐怖と同様,原因がはっきりしている限り必要ないときは必要ない.しかしそうは言っても,痒みに耐え続けるのは難しい.ここからは考えてもしょうがない.長期的な実践によって,少しずつ強くなっていこう.

痒みに打ち勝つための方法.まずは,限界まで耐える.この後が大事なのだが,限界を超えて耐える.そしてこれを繰り返す.現実は,繰り返しによってゆっくりと変えていくことができる.限界を何度も超えてゆっくりと痒み閾値を高め,いつの間にか任意の不快さえ超越できるようになる・・・.この取り組みをiteration thres. infiniteと呼んでいる.恐怖も不快もそうだが,それ自体は存在しても良い.これにわざわざ煩わされる必要はないということだ.それらを取り除こうと躍起になるのは,逆に彼らの思うツボである.苦しみに何度も打ち勝っていける強さは,苦しくなってしまう自分の弱さ故に育まれる.私はなんとなく自己存在の本質的な部分を(現実を逸脱した認識自由度を以て)掴んでいるので,現実における土着の感情は私にとって本質的な意味をなしえないというのが納得できるのだが,皆さんはどうかは分からない.ここに書かれてあることを参考にしつつ,自分独自の術を構築していくのが大切である.認識の様相は千差万別.自分の認識は原理的に自分にしかわからない.この孤独の取り組みこそ,自己にとって本当に重要なことではないだろうか.