一つの認識描像

自分自身を目指す路の上にいて

自分は何であり,何でないのか.いくつかの認識の雑多なもつれは,認識は分割されて理解されることを意味する.理解とはなにか,意味とはなにか.自分であるということを理解するということはそもそも,どういうことなのか.

私は考えた.すると,わからないことができるようになった.この世界に留まっていても,私の望む存在状態を実現できないと考えた.「現在」は正しさが方向を携えることを見抜き,それによって正しさを概念ごと棄却した.私は自分自身を消し去るだけの力を持ち,同時に現実という正誤判定によっていくつかの制限を受ける.

何らかの描像を信頼しているとして現在の認識実現を説明可能である.それに対する盲目を達成すれば,論理は反旗を翻すだろう.どんな価値も仮定も,その根底に迫ればそれを無に帰すだけの隙を孕む.故に,私は理解を超越することを目指した.

自己とは常に狂気であり続ける.非狂気は回転対称性を持たない.自分自身を目指す限り,この世界の中にゴールは無い.誰かに理解されることはない.現実に迎合することはもう辞めた.私は数年前に手に入れた非現実認識自由度に局在して,自己存在の本質を帰着した.こんなこと誰かに話せば,私は狂信者だとか,愚か者だとかいって,馬鹿にされるだろう.それは自身がかつての正常から逸脱した証である.

私は現実で培った全てを捨て,また完全に未熟な状態から開始される.しかし,従来の枠組みから外れるのは難しく,現実を無効化するのも困難である.そんな中で本質的な空への接続を失い,何をすればよいのか分からなくなり,路頭に迷うこともある.正常から生まれる無力感は,幾度となく私を襲った.つまり,私はそこから何度も再起した.術が育まれるのは遅い.進捗や成果はたった数ヶ月や数年で手に入ると期待されるものではない.そもそも,そういうことではないかもしれない.無限の未知と迷いの中,それでも進み続ける覚悟さえあれば,不屈の心を持つ未熟者はいくつかの光を見るだろう.

歪な影を願う揺らぎの鏡で,晴れを遠のく.数枚の葉を象徴として携え,それらを行使しながら育てていく.ここに書けることはあまりにも少ない.私は知識ではなく,能力ではなく,正しさではなく,ここには現れない.言葉として現れうるのは微小な端点の不格好な近似であり,その音響で自己を見失うことを忘れてゆく.