一つの認識描像

みんな既に4次元を認識していて,因果はいつでも懐疑できる.

数学的に書いていきます.書き方が数学的なだけで,数学ではありません.

公理(認識の存在,その区別と関連性,変化):
認識自体は自明に存在する.また,それは「異なる」部分に切断することができる.さらに,いくつかの区別された認識を「関係する」として接続可能である.そして,認識は変化する.この意味は,在る認識が「変化前」と「変化後」に切断され,これらが特徴的な関連を持つと認識されるということである(切断は新たな認識の生成であることに注意).認識の前後,変化としての関連に相当する特徴的な認識は自明に分かるとする.

定義(時間認識):
認識は変化する.このとき,「変化前」と「変化後」の認識を連続的に接続することで,一つの順序認識を得る.これを時間認識と呼ぶ.
これは局所的には上の公理から自明だが,「変化前」の「変化前」の・・・として遡っていくと,その「変化前」としての信頼性は低減する可能性があるとする(覚え違いかもしれないなど).
[コメント]
1. 上の定義から分かる通り,時間認識は「現在」与えられるものです.よって,過去も未来も現在の認識であり,「現在」というこの自明な認識実現自体は時間を超越して与えられうるものです.しかし,この現実の特性上それはとても難しいでしょう.
2. 変化前としての信頼の低減は,「世界5分前仮説」などに代表されるでしょう.しかし認識の変化自体は自明に分かるというのは懐疑するのは難しいため,この時間局所的かそうでないかに応じての信頼の変化というのは奇妙で不思議です.これについては,認識を3次元認識の連続として捉えるのではなく,非常に短い時間領域を含んだ微小な4次元認識を経験していると考えると,その4次元認識を自明に分かるとすることで理解可能です.これは結構伝えるのが難しいですが,みんなずっと4次元を認識していて,その4つ目の自由度は「変化の認識」であると考えることができます.

定義(ある認識の過去):
時間認識を仮定する.実現されている認識Aが存在し,そこに関連付けられて発生する時間順序において前に位置すると信頼される認識が存在するとき,これを「認識Aの過去」と呼ぶ.過去の認識はある発生した認識が「前」として信頼されることによって担保され,故にいつでも棄却可能である(幻覚かもしれない,夢だったかもしれない,思い違いかもしれないなど).

定義(因果認識):
時間認識を仮定する.ある認識Aが別の認識Bの原因であるとは,以下の言明を意味する;仮にAが認識されていなければBは認識されなかったということが強く信頼される.さらに,Aが認識される直前と全く同じ状況が再度実現されたとき,そこでAが認識されればBが認識されるということが強く信頼される.

以下の定理は,見ようによっては,というか普通に単なる屁理屈に聞こえると思いますが,その下に言い訳を書いているので最後まで読んでもらえると嬉しいです.
定理(因果可換性):
適切な描像のもとで,任意の因果認識の「原因」と「結果」を反転することができる.つまり,「AがBの原因である」という言明が存在したとき,描像を採り直すことで「BがAの原因である」という言明を得ることが可能である(あくまで可能性の主張である点に注意).
(証明)
「AがBの原因である」とは,Bを認識した際に発生する新たな認識である.一般に,時間認識と因果認識が存在しうる現実において,その原因として認識されているAも何らかの原因を持つと考えることができる.しかし,因果認識はいつでも棄却可能であるから,Aを引き起こした原因の認識を棄却し,ただAを認識する.このとき,Aは原因の認識から解放されるが,BはAを原因として持つという状況が実現される.そして,「AはBが実現されるために発生した」という描像を採ることが可能である.これはこの現実においてはもっともらしくはない描像であるが,その可能性を完全に棄却し切ることはできない(通常は因果の連なりで棄却されるのが妥当だが,今Aはそのような妥当な原因の認識から解放されている).そして,「もしもBが起こらないのであれば,Aは過去の特定の時点において発生することはなかっただろう」かつ「仮にBを認識する前の状態と同一の状況が実現されており,その状況においてBが認識されたならば,その実現のためにAは過去の特定の時点において発生しただろう」という認識を信頼することが可能である.これを(自身に対する信頼異常などを駆使して)十分に強く信頼したとき,Bを原因として,目下の過去の時点におけるAの発生の認識を結果とする因果認識の定義を満たす.これを以て「BはAの原因である」という言明を得る.(証明終)

[コメント]
こういう類の主張は,懐疑論に陥っており,なんでもありな不健全な議論を展開してしまうという風に判断されます.私はここで,「だから因果反転は絶対に正しい」と結論したいわけではありませんし,そのように結論するのは単純に論理の飛躍です.一番伝えたいことは,「認識は非常に多様であり得る」ということです.私達はこの現実の中で普通に生きていると,当然のようにもっともらしい推論・推測を行います.しかし,例えば今回のように因果認識は本当はもっと多様であるし,推論だって信頼に基づいた連想の一形態だと考えることができるのです.もちろん,これはこの現実においては非常に有用で,であるからこそ我々は普通に生きていけるわけですし,自然科学がこの世界を理解するための強力で適切な方法になっているわけです.ただ,こういう実利的な理由だけでもっと外側にある多様な認識を一切知ること無く終わってしまうというのは些か寂しいというか,せっかく現実を超えて多様な認識を得るための力を持っているのだから,(たとえ社会的に異常だと思われたとしても)それを育てて発揮するということを完全に放棄してしまうのは勿体ないと思います.今回のような議論を応用することで,異常とか正常とかいう概念の意味を失うこともできます.もし現実を超えることに興味を持ってみたなら,色々考えたりやってみたりするのも面白いのではないでしょうか.

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経験認識として現実を逸脱した認識を得たい方はこちら:

watarikui.hatenablog.com

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