一つの認識描像

ニヒリズムという単なるありふれた中間状態

普通に考えると,人はニヒリズムに陥るように思う.理性というのは非論理的に与えられた絶対構造が必要で,その構造は非論理的であるがゆえに論理的な正当性を見出し得ない.価値というのもそうで,なにか絶対的な価値観というのが必要となる.そして,論理にしろ価値にしろ,その基盤の可能性というのは無限である.しかしながら,その無限の可能性を同時に実現することは現実の特性上不可能である.なにか一つ選ばなくてはならない.では,どのように選べばよいか?選ぶための基盤は,また無限であるというのに.
本当に固定されているものは実現されている認識であり,これ以外は棄却可能であるように思える.特に価値というものに注目してみると,自分が信じてきた価値観というのはいつでも棄却できるように思う.すると,意味のあることがあるとは思えなくなる.そのうえいずれ死ぬのであるから,果たして何が価値を持ち得ようか・・・.自由意志さえ存在を担保できず,よってそもそも自己というものは何処に見出し得るのか・・・.

と,凡庸な考えを書いてみた.どうして,価値というものはこんなに重要なのか.いや,重要というのは価値があるということだから意味をなさない問か.ニヒリズムに至った人なら,ここに来るまでにいろいろな思考をしてきたように思う.以下のような問について考えてみてはどうだろうか:
1. 思考とは何か,認識の観点から説明しようとするとどうなるか.
2. 絶対的な価値が無いにも関わらず,なぜ価値という概念は存在しうるのか.
3. 価値を作り出すにはどうすればよいか.

ニヒリズムは,与えられた価値を盲目的に信じている段階では生じない.「そもそも」を問える人間でないと到達できない.しかし,奢ることはない.そもそも,何を以て愚かであるとか賢いとか言えるだろうか.私は,自分が賢いかどうかは無価値な関心であるように思う.それは上記の問いについて考えて,思考というものが単なる連想の一形態でしかなく,その形式には無限の可能性が存在するということを理解すると分かるかもしれない.逆に言うと,非理性的な考えや筋の通ってない考えを避ける必要はない.理性というものに盲目的な価値を見出していることを自覚して,もっと自由な認識を実現してみよう.因果・論理は断裂し得るし,何かを動かした時に動かす前のそれがそのまま存在し続けることもある.私はそういう光景をいろいろ見てきた.

ニヒリズムは,スタート地点ですら無い.ここからもう少し考えて,ようやくスタート地点に立てるような位置だ.非論理的な異常認識を駆使して非自明な価値を創るというのは,自己存在にとって本質的であるように思える.これは他者に公開されるべきではない.秘匿して,採用すべき認識体系を構築する.少なくとも未知は無限であり,自分が抱えている困難を打破する未知の術が存在するかも知れない.その可能性はいつでも否定できず,それ故に未知を無限に追い求め続けることは任意の価値体系で非自明な価値をもたらしうる.

かくいう私は現在,現実を逸脱した認識を調べている.実際に自分のクオリアで認識が実現されているので,経験として異常な認識を獲得できる.これは,まずは無意味に思えるような曖昧で複雑な認識も,現実に遜色ない意味を持つ認識であるとして実在的な認識を与えるところから始まる.そこからさらに認識をいろいろ云々して・・・2年くらいかけて,まだまだ満足の行く段階には達していない.最近ようやく,ある種の信頼異常を自らに付与して間隙から異なる景色を見るという術を会得した.弱因果描像に依る改変なども面白く,それでもやはり現実の棄却には敵わない.いつか,超越したい.

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この文章を生み出したものは,水に濡れる水滴のような存在である.存在ですら無いかも知れない.

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