何かを考え始めると巡り巡って自由意志にたどり着いたりすることが良くありますよね。今のところ、自由意志があるという証拠がないですし、はたまたそれがないことを証明するのは悪魔の証明になってしまうので基本的に無理ですので、何とも言えないというのが現状だと思います。でも、自由意志がないと仮定してみても、何の問題も起こらないんですよね。一方、あると仮定すると意志がどのように物理的な変化を生み出しているのかという問題を抱えてしまうので難しくなってしまいます。なので、自由意志はないというのが現状では妥当な考えではないのかと思います。
じゃあ、今感じているこれは何なのかという問題になるわけでして。自分が意思決定、ないし行動選択をしていると我々は思っているので、自由意志が仮にないとしてもあると錯覚し続けると思います。これは、我々がクオリアを持っていることが原因だと思います。クオリアというのは、簡単に言うと自分が感じている感覚です。それは、視覚的感覚だったり、聴覚的感覚、触覚的感覚に味覚だったりします。これらは、それ自身では単に物理的現象だったり化学物質による反応だったりするのですが、それを我々は認識して、ある意味世界の像を作り出しているわけです。もっとわかりやすくするために、クオリアを持たない状況を考えてみましょう。もしあなたがクオリアを持たなければ、何も感じません。しかし、体は外界に対して適切に反応し、得られた視覚的情報を自動的に処理し、それに対して普通の人間のような行動をとるでしょう。つまり、もし我々が自由意志を持たないのならば、クオリアがなくても今までと同じように外界と接し、友人と会話し、将来に向けて努力するというわけです。しかし、クオリアを持たない人間を作ることは難しいので、このことについて検証できるのはもっと先の話になるか、もしかしたらできないかもしれません。いや、もしかしたら分からないだけで他の人はクオリアなんて持ってないのかも・・・?
これは余談ですが、もし自由意志が無いということが事実として認定されたとしても、これを信じるかどうかはその人それぞれで判断すればいいと思います。これに関しては、完全に個人の好き嫌いの問題だと思います。自由意志が無くても、あると錯覚し続けると思うので。自由意志が無いからと言って何も変わらないんだと考えてしまって、努力しなくなって不幸な人生を歩むくらいなら、あると思って頑張るほうが幸福になれますからね。まあ、その決定や感じ方もあなたの裁量ではないかもしれませんが。