一つの認識描像

自分は本当に自分の指を動かしているのだろうか

特に苦痛のない、心地よい時間を過ごしているときに生じる疑問について、ここにまとめてみます。

1. 自分の指の動かし方が分からない

忙しかったり、辛いときにはこんなこと考える余裕はありませんが、ある程度落ち着いてのんびりしていると、ふと疑問に思うことがあります。「本当に自分は自分の指を動かしているのだろうか」と。

なにせ、自分の指の動かし方が分かりません。指が動くためには、まず脳内の処理が行われて、電気信号が神経を伝い、そして指の運動神経に伝わる必要があります。こんなことを考えながら指をウニウニ動かしていると、「やっぱ人間って頭おかしいわ」と思わざるを得ません。こんなに複雑な動きをいとも容易く行っているのです。それに、自分は電気信号の具体的な出し方なんて知りません。完全に無意識に行われていることなのです。そして、思うのです。「自分は指が動いているのをみて、『指を動かした』と錯覚しているのではないだろうか。」と。

2. 自分の指を動かそうとするのは何?

自分の指が動くときに、どのような順番で何が行われるのかを考えてみましょう。多くの人は、①指を動かそうと思う、②脳内から電気信号が指に伝わる、③指が動く、という流れを想像すると思います。しかし、①って一体全体何なのでしょうか。①を認識するということは、「自分が指を動かそうとしている」という感覚を認識するということです。「指を動かそうとしたから、指を動かした」ということになります。何当たり前の事を言っているのかと思われるかもしれません。しかし、次のように考えることもできるのです。

①指が動くことが脳内で決定する→②指を動かそうとしているという感覚を感じるように脳内で電気信号が伝わる→③それとは別に指に電気信号が伝わり、指が動く

 これでも、自分が感じている感覚をすべて再現することができます。そのうえ、これは否定できないと思います。ここには、「自分の意思」という要素は入っておらず、単純に脳内の物理的な変化によって自分の行動を説明し、さらに自分が指を動かしたと錯覚することで普段感じている感覚をそのまま表すことができます。もしこれが正しければ、誰が指を動かそうとしているのでしょうか?この場合は、指を動かそうとしている存在は無く、ただ「指が動いた」だけなのです。

3. 納得できない部分は結局クオリア

上述したことが正しければ、我々の全ての行動は物理的に決定され、意思というのはただの錯覚ということができます。悲しい感じはしますが、まあ正しそうではあります。しかし、その「錯覚」を感じているのは誰でしょうか。そして、悲しく感じているのはいったい何なのでしょうか。

自分が感じる感覚の事を「クオリア」と呼びます。例えば、リンゴが目の前にあれば、あなたは「赤」のクオリアを感じます。もしあなたがロボットであれば、何も感じる必要はありません。与えられた刺激に対して、プログラムに沿った反応をすればよいからです。しかし、我々は様々な刺激を感じ、経験し、考え、行動しています。これは、クオリアがあればこそです。このクオリアを感じている主体はどうやって説明すればよいのでしょうか。空を見て美しいと感じたり、漫才を見て面白いと感じたりしますが、このような事象は私には説明できません。この「感じる」というのを物質的に、物理的に説明するのは非常に難しいように思います。果たして、今後の科学の発展により物理的に説明されてしまうのか、それとも永遠に分からないのか、はたまた、自由に考えて行動していることが証明されるのかは分かりませんが、これは非常に興味深いことです。また、もし自分の意思なんてものが無くて錯覚だったとしても、そんなに深く考える必要はありません。結局、私たちは自分に意思があると思って生きてますし、それによって不都合は何も生じません。自分の意志で努力をすれば、何かを身に着けることができますし、人生をより良い方向にもっていくことができます。それでも、時々このようなことを考えて不思議な感覚に浸るのも、悪くはないのかなと思ったりします。