一つの認識描像

私はクオリアを持つってのは,ちょっと違うかも?

私はクオリアを持つ・・・.他人がクオリアを持つかはわからんけど,そんなふうに解釈して行動すると自然に理解されるように思える・・・.でも,よく考えてみるとちょっと違う.

存在しているのは,今実現されている自明な認識,すなわちクオリアのみ.そして,その特徴的な部分として「自己」という言葉で指し示される部分がある.ということは,認識という単一のなかに,いろいろ或るということ.そしたら,自分というのはなにか「これは自分か?」という問い合わせに対して,「はい」を返すような認識の部分となる.その判断の根拠というか基準というのは,多分なんとなくなのだろう.「なんとなく」というのは非論理的だが,論理はその土台が必要で,土台となる感覚まで来たのかもしれない.「自己の感覚」.自己の感覚を操ることができれば,この幾何中心の特徴的な感覚を拡張して,現実逸脱した自由度に対して自己概念を拡張することができるかもしれない.もしくは自己を棄却して,全く新しい世界の見方を持つ事ができるかもしれない.やろう.