一つの認識描像

自由意志は存在するとも、存在しないとも言えない?

夏も終わり、秋らしくなった今日このごろ。夏の思い出に、自由意志についての考察を書いておこうと思います。夏といえば現実逸脱や哲学的考察の季節だよね!
色々と考えを巡らせていると、結局たどり着く自由意志問題。まず、この現実においては自然科学的な説明として、自由意志は存在しないという結論が出て来やすいです。そうでなく認識だけで考えても、自由意志を仮定しなくても「なんか自分で動かしてるような認識」が先行して発生するようになっていれば問題なく認識現象を説明できる。自由意志が存在する今のところ唯一の拠り所は「自分の認識」であり、これに関して自由意志の存在が必要ないとなったら、もはや主張のための支柱はないでしょう。

ここまでの議論に依ると、「自由意志は無い!」と結論したくなると思います。しかし、「自由意志は存在しなさそう・存在しなくても説明できる」ことがわかっただけであって、そのまま存在の否定をするわけではありません。自然科学は、その性質上無限後退します。つまり、「なんで?」と無限に問い続けることが出来ます。例えば、この宇宙における素粒子が全て発見されて、物理法則が全て解明されたとしましょう。この時点でも、「なぜその物理法則なのか?」と問うことができます。自然科学は、この宇宙の経験に迎合するように体系の構築が行われます。そして、その経験というのは人間の認識能力(技術)に依存します。これによって、「我々の認識特性上絶対に理解できないような、隠された部分があるのではないか?」という問いも出てくることになります。それに、宇宙の始まりについては何も言うことが出来ません。法則は因果的であり、果に因を要求します。そのため、無から始まるという仮説で実際の現象の説明ができたとしても、「何がどうなって無から生まれるのか」は因果異常でも考えない限り難しいでしょう。
それに、今この世界が幻覚である可能性は誰も否定できません。絶対に確実だと思われるのは「この認識が存在している」ということのみであって、実はそれ以上は仮定や信頼に基づくものです。我々はこの世界に存在しますが、別世界に存在すれば用いる論理も基本的な思考法も異なるかもしれません。推論は、規則への合致により生じた言明の信頼で与えられます。なぜこれが信頼できるかというと、経験に迎合するからです。つまり、「論理的に考えること」そのものが認識の局在であり、それを避けるためには何も考えず、そして無意識的な認識作用も排して、「ただ視る」ことが必要になります。

自由意志の話に戻りましょう。我々は、何を根拠に自由意志を否定しますか?そう、「根拠」が存在しているのが分かります。何かを絶対視してその上で議論しているのですが、最初に絶対視されているものは否定することが出来ます。デカルトは方法的懐疑によって、世界を疑いました。すると、多くのものは肯定できないことになります。しかし、「可能性としての存在」を否定することは出来ません。「~かもしれない」という可能性の認識があると、完全な否定ができなくなります。自由意志の存在は、それ自体を自明了解出来ない時点で存在を確実に言うことは出来ないのですが、それと同時に「自由意志はあるかもしれない」という可能性の認識を排除することも出来ません。つまり、「分からない」が正解なのでしょう。もっというと、あると思っても無いと思っても、あんまり変わらないということです。

これは全てに対して言えることなのですが、認識の存在レベルで自明なもので無い限り、認識の局在が発生しています。局在自体は悪いことではなく、むしろ実践的で有益なものです。認識の局在を行わなければ、この世界に生きていくことは不可能でしょう。しかし、たまに「認識が局在しているなー」と思うことは大切だと思います。盲目的に信じるのが最も危険です。局在の正当性は、いつでもその局在から脱することのできるその可能性によって与えられる、ということです。適度に揺らいで生きていきましょう。