一つの認識描像

クオリアを感じているのは誰か

私は一元論的なものの考え方で世界をとらえることが多いので、すべての事柄を物理的に説明できるのではないかと考えがちです。そのため、自分が日々行っている(?)意識的な活動も物理的に説明できるのではないかと考えています。このような前提を持つと、「クオリア」という存在が奇妙極まりないものとして現れます。クオリアとは、簡単に言うと我々が感じているこの感じです。すべての感覚です。すなわち、もしクオリアが無ければ我々は視覚的情報を感じず、聴覚的情報を感じず、外部刺激に対して自動的に応答しているだけの存在となります。ロボットのようです。しかし、我々はクオリアがあるので、様々なものを見聞きし、それを感覚します。もしこの世界が完全に物理的であれば、クオリアを持たなくてもすべてが成立するはずですし、クオリアを物理的に説明しようとするとかなり難しいと感じています(!)。このクオリアを感じるもの(以下、QFと呼ぶことにします)は、いったい我々のうちのどこにあるのでしょうか。今回は、それについて考えていきます。ちなみに、私は脳や神経科学に関して素人なので、一個人の考えとしてご覧ください。

1. 「処理済み」の情報を渡されるQF

我々の脳は非常に巧妙にできています。たとえば、我々は自分の目が動いているところを鏡を通してみることができません(時々できることもありますが)。これは、目が動いているときの情報を脳が処理して、最初から目がその方向を向いているという風に修正するからだとされています。さらに、錯覚を利用したトリックアートなどを見ると、本当に奥行きがあったり、2本の棒が違う長さに見えたりします。もし我々が外部情報を電気信号に変換して受けとり、それに対して応答しているだけなら、このような処理を施さずに生の信号を送ればよいと思うのです。網膜に映る映像は左右上下逆さまですが、別にそれを正しい方向に戻さなくても入力に対して有効な反応ができるはずです。しかし、QF(我々)はその他さまざまな処理が施された「処理済み」の視覚的情報を感覚します。そのほかの感覚に対しても、同様に処理が施されています。このことから、QFは脳の感覚処理機関に存在するのではなく、情報を処理して思考する前頭葉あたりの働きであると推察できます。つまり、脳の各部分で処理された外部情報を情報処理部門に送っていて、その情報処理部分にQFがあるために処理済みの情報を感じるのです。

2. 自分が考えていることを感じているということ

それでは、脳の中の思考する部分にフォーカスしていきます。この部分にQFが存在しているはずです(もしくは、その全体がQF)。しかし、我々は自分が思考しているそのプロセスをも感じることができます。ああでもない、こうでもないと考えを巡らせて、その末に結論を導き出すのです。もし自分が思考しているのを感じられないならば、単に自分は一人称視点の超リアルなシミュレーションゲームをやっているのと同じになります。もっというと、自分が選べる選択肢はありません。自動的に思考が行われていくため、そしてそれを感じることができないため、無思考ですべての応答を行い、それが感覚としてフィードバックされるだけの状態となります。我々が思考するということは、「自分が思考していることを感じている」ということなのです。このことを考えると、QFが完全に独立した部分であるということは考えにくいです。なぜなら、もしそうであるとするならば思考のプロセスを感じる必要がないからです。思考中に、QFは常に思考部分と相互作用し続けて、そこで感じたことをフィードバックしてさらに思考しているような気がします。

3. 思考する、そして感覚を生み出す、それは記憶となる

よく考えると、我々は思考することによって感覚を生み出すことができます。そう、想像です。妄想とも言います。なので、思考によってQFに新たな情報が渡されるというのは明白です。そして、自分の過去を振り返ってみると、「あの時あんなこと考えてたなあ」と思い出すことがあります。つまり、思考は記憶されます。逆に、思考が記憶されなければ、我々は思考していることを認識できないのではないでしょうか。つまり、思考プロセスを感じている状態は、思考部分と記憶部分の相互作用によって成立していることになります。1秒前に考えていたことを保持できなければそれ以上思考を深めることはできないので、当然といえば当然です。もっというと、処理された情報は一度記憶部分に保持されて、そこから思考するという流れになるはずです。そうでなければ、思考プロセスを踏まなかった情報を覚えていることができなくなるからです。外部刺激→処理→記憶↔思考というようになっていると考えられます。我々は記憶している物しか思い出すことができないので、感覚が持続的なものであると認識しているならば、QFは記憶とも密接に関係しているということになりそうです。

4. 情報を引っ張り出す、情報を格納する、情報を処理する

思考というプロセスは、非常に複雑であると分かってきました。そして、記憶・思考するということがクオリアの発生と非常に深くかかわってきているように思います。しかし、所詮は見出しにも書いたような情報の流れであり、これらはクオリアが無くても可能なものです。複雑な電気信号の渡しあいによって、原理的には説明されるはずです。とはいえ、QFがこのあたり、すなわち思考と記憶に関わる短期記憶、ワーキングメモリーにいそうな気はします。思考というのは情報の加工・組み換えで、それに必要な道具は論理(これはいったい何なんだ)と記憶です。思考されている中途の段階で短期記憶が準連続的に行われ、今の論理の関係を保持しつつ、これまでの流れや別の記憶も参照してさらなる思考を展開していく。思考がこのように行われ、それを我々が感じているとするならば、QFは短期記憶部分に存在しそうだなあと思います。標語的に「我々は記憶である」といっても、まあ確かにそうではありますね。クオリアが何者なのかはいまだ釈然としませんが、居場所はおそらくここだろうと思います。もちろん、全く違うかもしれませんけどね。と、考えながらこの文章を書いていきましたが、つくづく我々は不思議ですね・・・。