一つの認識描像

人生に意味も価値も存在しない

初めに、これは考え方の一つということをご了承ください。どう生きるかは個人の自由です。

まずは、人間はいったい何をしているのかということについて話しましょう。我々は文明を築き上げ、さらに豊かで便利な暮らしをするために日々経済を成長させています。どんな職業の人でも、社会をよくするために貢献しているので、この時点で皆さんの人生には価値があります。このような人類全体としての成長の上に未来の世界が存在するので、皆さんが死んでしまったとしてもその影響は残り続けます。しかし、人類はいつか終わりを迎えるでしょう。すると、それらは消えてしまいます。人類の歴史、はたまた地球上の生物の歴史は、完全に無意味なものになります。なので、大局的な視点を取れば、ほぼすべてのことが無意味になります。また、人ひとりの人生のスケールでみても、死んでしまえば本人にとっては特に何もありません。特に何もないというのは、死んでいるので何かを感じることすらできないということです。一生懸命生きても、最後には自分の認識は終了します。しかし、そもそも生きている状態というのはどういうものなのでしょうか。これに関しては、まだ研究がなされている段階なので断言はできませんが、私たちが自由に動いていると感じるのは幻想に過ぎないと考えることができます。これは、脳内を含め自分の体全体が物理法則に支配されて自動的に動いており、我々はその行動を「自分の意志で選んだ」と錯覚しているということです。現段階で、これを否定することはできないと思います。量子力学によって確率的に物事が決まるという事実があるなどの反論はあるかもしれませんが、その確率的事象に我々の意思が介入できるのならば、それはもう確率的なものではありません。つまり、意思なるものが存在する余地が見当たらないのです。しかし、これに関しては特に問題はありません。なぜなら、もしこの話の通りに我々に自己決定権がなかったとしても、今まで通りそれがあると錯覚し続けて生きていくと思うからです。それでも、あなたの主体的な行動は存在しないことになります。

我々が複雑な機械と同じようなものだというのなら、そもそも我々が信じてきた「生きている」という状態ではないと言うこともできます。死とは、我々が生きていないことをしっかりと再認識することです。死んでしまえば、特に何もありません。なので、どんな失敗をしても、辛いことがあっても、最後には消えてなくなります。私は、正直死ぬのも死なないのも大差ないと思っています。単なる状態の違いです。人はすぐその一生を終えます。もし、こんな意味のない人生を彩りたいのであれば、ミクロなタイムスケールで意味を見出すということを行えばよいです。生きている間に達成できる目標を見つけてそれを達成すれば、生きている間に完結することができるので、自分が生きていると錯覚している間に「意味」を見出すことができます。人生とは本来無意味なもので、価値なんて全くないものですが、そこに自分の人生の中で適応される「意味」や「価値」を自分自身で定義して生きていく。おそらく、普通に生きているのと変わらないでしょう。結局伝えたいのは、自分にとっての意味は自分で決めるということと、辛いことがあっても最後には意味がなくなるから大丈夫ということです。自分の人生の意味や捉え方は、変わっても良いです。いくつか物事の捉え方を持っておいて、都合の良いものをその都度選んでも何の問題もありません。それが自分で決めたものであればよいのです。

皆さんの人生に対する捉え方に少しでも影響を与えたなら、この記事には意味があるでしょう。