一つの認識描像

娯楽・趣味を楽しむためのヒント

意義は認識の局在に依ると考えることが出来ます。つまり、「有意義」であるということは、認識のスケール、主に時間的スケールに依存するということです。例えば、あなたがゲームをして、何かを達成したとしましょう。ステージクリアでも、目標のスコア・タイムを出せたでも、何でも良いです。この時、ゲーム内に認識を局在すれば、それは意味があることです。さらに、そこまで打ち込む程に楽しかったわけですし、達成感を得ることにも繋がったでしょう。よって、達成した時刻の近傍に認識を局在すれば、有意義であるということになります。
しかし、逆に認識のスケールを増大させると、意義など無いと判断される可能性があります。楽しさも一過性のものですし、目標の達成もゲームの中だけで現実のものではありません。もっと極端なことをいうと人はいずれ死ぬので、現実でいくら努力しようと、いずれ全て無意味になるのです。何かを達成して名を残したとしても、名を残して後世まで語り継がれている様子を直接認識することは、死んでいれば不可能です。

これが、私が「意義は認識の局在に依る」と考える理由です。多くの場合、認識のスケールを広く取れば取るほど意義は小さくなっていき、時間スケールが死を上回った場合に0になります。そして、娯楽を楽しめないというのは、虚無主義に陥るまで認識のスケールが大きくなっていなくても、認識のスケールが広く取られていることが原因であると考えることが出来ます。
よく、「趣味に没頭する」というのがあります。これは、その趣味の世界に完全に入り込んでいるということのなのですが、すなわち、外側の世界を認識していないことになります。何かに熱"中"するというのも、認識の局在をよく表す言葉だと思います。

なので、娯楽を楽しむにはその娯楽に入り込んで、現実のことをあまり認識しないというのが重要な要素の一つであると分かります。では、なぜどうしても外側の世界のことを考えてしまうのでしょうか。
皆さんは、子供の頃に「遊んでばっかりいないで、将来役に立つことをしなさい」と言われたことがあるかもしれません。子供はそもそも認識のスケールが小さいため、あまり周りのことや未来のことを認識できません。そのために、楽しく遊ぶことが出来ます。しかしこの、「役に立つ」というもの。ちょっと偏った見方かもしれませんが、「将来収入を得ることに繋がること」なのではないでしょうか。子供が遊んでいるとき(何か能力が身につくとかそのような話を抜きにして)認識を局在させると、彼らは非常に楽しんでいます。これは有意義なことです。しかし、経済的成功につながらないと判断されるものは否定される傾向にあります。
もちろん、経済的成功も重要な要素として認識することができ、それを目指すことは有意義なことです。しかし、それがその他全ての"楽しさ"を無為にするほどのものとは思えません。「役に立つ」ものとして、社会的地位を得るというものも考えられますが、これに関しても同様なことが言えます。そして、「役に立つ」ことはこの現実に存在します。我々は現実に暮らしているので、これ以上存在の認識を広く取ることは困難です。つまり、小さな世界の意義が、外側の世界の意義で打ち消されるということがある上で、現実はある意味で「最も外側」の世界であり、そのなかで有意義なことが最重要であると考えてしまうことになります。

遊ぶことは、役に立たない。今遊ぶことで、経済状況や社会的地位が脅かさせる可能性がある。この認識こそが、娯楽から楽しさを取り除く大きな要因ではないかと思います。なので、もし趣味を楽しみたいのであれば、この認識を弱める必要があります。自分にとって大切な要素は何か考えたり、もっと安心しても良いのではないかと考えてみたり、ときには誰かに相談してみるのも手です。やはり、不安になりやすかったり心配症だったりすると難しいですが、なぜ不安になるのか、なぜある種の恐怖を感じるのか、どうすれば和らげることができるのかを考えてみると良いかもしれません。