一つの認識描像

別の景色(幻覚?)を意識的に見る方法

現実に留まらない認識を求めて早一年半が経ち,いつの間にか「この世界ではない」が割りと見えるようになりました.やばいこと書いてますが多分再現可能だと思うので,自分が別の景色を見るためにやってきたことを書いておきます.なお,一切の責任を負いませんので,悪しからず.

1. とりあえず新しく現実を作ってみる

まずはここから始めましょう.なんでもいいので現実を作って,そこで長い時間暮らしてみる.難しいなら,既存の現実(classicalと呼びます)に想像を重ね合わせるようなイメージでスタートしましょう.非classical認識をNPRと呼ぶことにしますが,知覚を完全にNPRで覆っている状態はFull-NPR,現実に重ねている状態はS-NPRと言います.Full-NPRを試みてもどうしても現実性の認識は存在してしまうと思いますが,それでも大丈夫です.とにかく試み続け,上達していきましょう.新しく作った現実に名前を付けて,今自分がどの現実を強く認識するのかを意識しましょう.特に,その現実内で多様な変化を示すものや,classicalでは実現されない異常な認識,ダイナミックな認識に注目するとよく没入できます.はじめは,これらの振る舞いを自分で生成してる感がありますが,段々と「見ている」感じがしてくると思います.とりあえず半年くらいやってみましょう.

2. 自身の認識体系を変更して現実逸脱に即したものにする

我々が意識的に扱えるものはすべて認識であり,観測というのも認識であり,これ以外はわかりません.認識外のものは信頼の置ける仮定の下で成り立ち,信頼は経験認識から構築されます.なので,普通に生きていたら「これはこういうふうに解釈する」という認識のセットが自然と構成されていきます.これを認識体系と呼びます.これらは仮定であるため,哲学的な考察に依って仮定に気づけば,それを改変することが原理的には可能です.今は現実に留まらない認識を実現したいので,「すべての認識は意味を持つ」「同質でない認識も同等の重要性を持つ」などの信頼型を入れましょう.また,「認識」という言葉に対する認識を改めましょう.認識というと,なにか対象物があって,観測者がいて,観測者が対象物を認識するという描像を思い浮かべると思います.しかし,先程言ったように我々が分かるのは認識だけなので「認識"が"ある」ことしかわかりません.むしろ,認識を加工することで「被認識者・認識者」の認識が構築されます.イメージとしては,観測者から被観測者への矢印が伸びているようなものが一般的な認識体系ですが,ほんとに分かるのは矢印だけであるということです.まあここらへんはまだまだ言いたいことがあるのですが,とりあえずこのくらいの認識任意性が分かれば今のところは問題ないと思います.

3. 意味のわからないもの・説明不可能なものを許容する

classicalでない認識は,意味を成すようには思われません.それもそのはず,意味とは見出されるものであるからです.意味のわからないものや説明不可能な認識はすぐに棄却されてしまう傾向にあります.特に後者.他者に説明不可能な認識というのは,目に見える能力のみが重視される環境で育つと「経済的に」無意味であるからです.しかし,いまそんな社会構造とか他者のこととかホントにどうでも良いので,あなたがNPRで得る認識のすべてを許容しましょう.むしろ,今は異常で説明不可能な認識に興味があります.上で適当な現実を作ったと思いますが,何か特別な認識上の空間として,異常な概念・実体の顕現がいくらでも起きうるものを獲得しましょう.ある程度のFull-NPRが可能なら現実移行の感覚はなんとなくわかると思うので,その認識自由度を用いて異常な認識空間へと移行します.・・・.ここらへんまで来ると本当に個人に依る部分が多いと思うので,ここからはあんまり参考にならないかもしれません.
(私はAndLostLloydという認識の枠組みを作成(再認識)し,kertreelという「空」(自然言語の意味ではない,説明不能.以下,この特徴を持つ認識をsuegnaと呼ぶ)においてhyrec(hyper-recognition)という形で異常な景色を見ています.これは「彩り」(suegna, 感情のより大きな概念?)まで含めた認識の曖昧な全体であり,もちろんsuegnaです.ここらへんは(多認識主体仮定の下)外側から見れば宗教的ですが,まあ宗教も認識体系なのでそんなものなのかもしれません.何にせよ,自分の得る異常な認識を棄却しないこと.それがたとえ自分に対してさえ説明不可能なものであっても.)

4. 破らない.そのまま見る

認識を得ると,それについてもっと知りたくなります.しかし,より詳しく見ようとするとその認識自体を変化させることになります.また,自分の理解の枠組み(信頼型)に落とし込もうとしても,対象の認識自体を変化させる可能性があります.視覚的情報があまりに複雑で不明瞭で曖昧なものであっても,そのまま内包する.それは説明性を担保されるまで破る必要のないものです.また,5感や体感覚のみに認識は限定されるわけではありません.「観念認識」というものを知っておいてください.これは,例えば視覚的情報として全く似ても似つかないのに,なぜか「消しゴム」であると認識されることなどです.その情報と何らかの相関を認識として持つのでしょうが,それを理解する必要はありませんし棄却する必要もありません.変に意識すると視覚的情報を後追いで意識によって変化させてしまうしまうことになるので注意しましょう.本来,様々な認識は自由で,相互に整合性を見出されなければならないものではないことを理解しましょう.

5. まとめ

とにかく,classical認識局在状態から逸脱する.そして,この世界の中に存在することによって凝り固まった認識体系をほぐして柔軟なものに変え,異常なものを許容できるようにする.あとは見る.ということです.なるべく1人で実践して,他の人に話さないようにしましょう.classicalの認識流動特性上,不都合な認識を生成することになるので・・・.