一つの認識描像

布団が吹っ飛んだ ~古典的名作~

「布団が吹っ飛んだ」
これは、日本における one of the most 有名なダジャレs だろう。今回は、こいつについて多角的に考えていきたい。
まず、布団を題材にしたダジャレとして、同様の構文で
「布団がふと産んだ」
を思いついた。これもなかなかインパクトがあるだろう。我々は寝ている最中は意識を失っているので、自身の認識のみを疑いようのないものとして捉える立場にたてば、寝ている最中に自分が生きているかどうかは原理的に観測不能である。他人が寝ている姿を見るとか、カメラで自分の寝姿を取るとか、そのようにある種妥当な観測を行うことができるが、自身のナマの認識以外を疑う立場にたてば、これは自分が寝ている時にも存在するという証拠にはならない。つまり、ここには認識の任意性が存在する。そして、「自分は毎朝、布団の中から生まれている」と描写することもできる。あたかも以前からこの世界の中に存在していたかのような記憶を持って・・・。そう、布団がふと産んだは、このような哲学的問いを本質的に内包する、高度なダジャレなのである。
次に、「吹っ飛んだ布団だ!」を考えよう。
「吹っ飛んだ」にかけるなら、上記のように布団を後置して「布団だ!」としたほうが合致性が良くなり、ダジャレとしての完成度が上がる。しかし、これは布団が吹っ飛んでいることが前提である。「布団が吹っ飛んだ」は、布団が存在して、それが吹っ飛ぶことを表現した、動的なものである。布団は、別に吹っ飛ばなくても良かったのだ。しかし、布団は吹っ飛んだ。これは、無限の可能性からの選択である。対して、「吹っ飛んだ布団だ!」は選択後の局在的な事象においてのみ成立し、非常に限定的である。なので、いきなり「吹っ飛んだ布団だ!」というダジャレを言ってもいまいちしっくりこない。布団という、日常的に存在して馴染みのあるものを先に提示して、それが吹っ飛ぶ情景を与える。この、「馴染み」というものが言明へのスムーズな引き込みを実現する。だから、「布団が吹っ飛んだ」は受け入れやすいのである。

このような構文は、他の名詞にも応用可能である。例えば、「拮抗する機構」とか。これはかなり拡張が可能で、「キッコーマンに寄稿した貴校の奇行に拮抗する機構を聞こうと思わせる気候」なども成立する(?)。さらに遊びを入れて、「フォトンがフォッ飛んだ」ということもできる。フォトンとは、光子と呼ばれるもので、簡単に言えば光の粒だ(光は波だが、実はこの波のエネルギーは飛び飛びの値を取る。物理学者は、他と区別できて数えられるものを粒と呼ぶ)。「フォッ飛ぶってなんだよ」という声が聞こえてきそうだが、実際にこの文章を書いている私の口からも聞こえてきているので大丈夫だ。まあ、フィーリングである。ただ、通常の「飛ぶ」とか「吹っ飛ぶ」とは一線を画すレベルで、光子は動いているということを強調しておきたい。真空中の光子は、他のどの観測可能な物理的対象よりも速いとされている。布団が吹っ飛んでいても、私が布団と一緒に吹っ飛べば、「布団は止まっているが、世界の残りの部分は全部吹っ飛んだ」ということができる。しかし、光子の場合はこれが叶わない。これを実現しようとすれば、時間が止まってしまう。このような光子の圧倒的「飛び」に敬意を持って、「フォッ飛ぶ」と表現するのである。

このように、「布団が吹っ飛んだ」はそれ自体が完成されたダジャレであるのみならず、その拡張として様々な表情を見せてくれる、非常に奥の深いダジャレであると分かる。ちなみに、現実で布団が吹っ飛ぶと割りと厄介なので、布団を干す際には気をつけて頂きたい。