一つの認識描像

存在の拡張を信頼から行おうとして、異常な認識状態に出会ったお話

前の記事で、存在と信頼の認識の関係性から負の存在認識を定義できないか考えていました。負の存在状態が考えられるなら、虚数的な存在状態も考えたいと思うのは自然なモチベーションだと思います。
数の場合は、虚数というのは「2回同じ変換をして、元の数の負になるような操作」として捉えることが出来ます。実軸上でマイナスを掛けるというのは、原点を中心とした反転です。この反転を2回の操作で実現したければ、実数直線に垂直な軸を追加して、90度回転すれば良いことがわかります。この操作を2回行うと180度回転するので、ちょうどマイナスを実現します。
これと同じように、存在の認識についても議論したいと思いました。なので、まずは存在を担保している軸である「信頼」を2成分にします。信頼の認識を現象的に考えれば、①安心している(感情)、②それ以外の可能性を考慮しない(思考)、という認識的特徴があるように思われます。実際には、ある体系の中でそれ以外の可能性を考慮しなくて良いような根拠があるから安心しているという実現が通常だと思われますが、今は異常な存在認識について考えたいので、あえて独立に捉えます。ここで例を挙げてみましょう。例えば、皆さんの目の前にはデバイスがあって、この文章を読んでいると思います。では、そのデバイスを存在として認識したとしましょう(普通は存在だと認識していると思いますが)。このデバイスが幻ではなく確固たる存在であるという認識が実現されているならば、デバイスの存在を信頼しているということです。このとき、特徴的な情報・感覚の認識を根拠に、これが存在しない可能性についてあまり思案せず、存在しないのではないかと不安になることもないでしょう。このように、思考のベクトルが散逸せず(局在と呼ぶことにします)、安心している状態が実現されているということが出来ます。対して、あるものの存在を疑わしく思っているのであれば、それを受け入れるのに不安を抱き、他の可能性を考えるでしょう。つまり、信頼を(局在+安心)、懐疑を(散逸+不安)として考えます。

ここで、思考の局在度を縦軸(正が局在、負が散逸)、安心度を横軸(正が安心、負が不安)に取ったグラフをイメージすると、信頼は第1象限、懐疑は第3象限に位置していることがわかります。信頼の軸は傾き45度の直線として表現でき、信頼を2回の操作で懐疑に変換するには、一度第2、または第4象限を通るような回転を考えれば良いことがわかります。そして、これらは普段なかなか実現されないような認識状態であることがわかります。
第2象限を考えましょう。ここは(局在+不安)であり、ある認識を存在として受け入れることに不安を持ちながら、他の可能性は考慮されないという特性を持ちます。これは、よく分からない状態です。普通は、存在として受け入れられないのなら、他の可能性を認識していて、そちらのほうが信頼できるかもしれないという認識状態が実現されているように思われます。しかし、そのような可能性の認識を行っていないにも関わらず、ただただ不安である。"正常"な認識というのは複数の認識の組み合わせになっていて、そのフォーマットのようなものを無理やり切り離すと、経験したことのない奇妙な状態が実現されるようです。逆に言えば、本来はいくらでも認識を自由に組み合わせられるはずなのに、実現がなされないようなものがあるということで、これは現実認識からの逸脱の方法を与えてくれます。第4象限も同様に書くと、(散逸+安心)という、ある存在認識に対して安心していながら別の可能性を考えているという状況になります。普通は、安心しているならそれを保証する根拠が何らかの形で与えられているはずなので、他の可能性を考えにくくなるはずです。これは、認識発生の因果的流れをも示唆します。つまり、安心や不安は常にその原因を持つと認識されやすいということです。原因・根拠がはっきりしない、もしくは通常考えられる原因が同時に実現されていないような安心・不安の状態は考えにくく、ましてや存在の認識に限定して考えると本当に意味のあることをやっているのか怪しくなるほどです。このようなよく分からない認識であるからこそ、むしろ虚の存在認識としての資格を与えられるのかもしれません・・・。