一つの認識描像

過去とは何か。認識と信頼

我々は、認識を行います。認識は流動的で、これはいつでもそうです。なぜなら、私が「いま認識が止まっているな」と認識した時、それは「時間が経っているような認識があるにも関わらず他の部分が全く変化していない」ということを意味します。つまり、いわゆる「内的な時間変化」なるものが認識されているのです。これがなければ、何も言うことが出来ません。このことは、何かを知るということが、知らない状態から知っている状態への著しい跳躍であることからもわかります。認識が「分かる」というのは、そこにダイナミックな認識があるからであって、静的な認識は少なくとも私には難しいものです。
認識が本質的に流動し、変化していくものであるとすれば、「変化前・変化後」という認識が自然と発生します。ここに順序を付けて認識すると、時間的認識が誕生します。もしその認識が原因と結果というものであれば、因果的認識が生まれます。ある変化が起こる時、多々ある変化前の認識に特徴的な類似があれば、それが原因として抽出され、世界が説明されていきます。極論、変化前の状況と、それに対する人為的変化、その後の状態を認識して積み上げれば、これで自然科学となります。

哲学的に疑ってみれば、本当にその存在が分かるのは現在享受する認識の存在のみです。これ以外は、疑うことが出来ます。例えば、ほんの一瞬前に自分が今の認識状態(思考、記憶、感情など含む)を持ってこの世界を認識するようになった、としても、これを完全に否定することは出来ません。逆に、今見ているこれが幻覚であるとしても、その幻覚としての認識は存在しているため、認識の存在というのは確実に言えると思います。では、過去という認識の正体は一体何なのでしょうか。
はじめに、考察のスタートはいつでも自明に分かる認識です。そして、「変化」という抽象的な認識が、そこにはいつでも存在します。あなたは様々な認識を持ちます。その中で、ある特徴的な認識が「過去」として認識されます。しかし、その認識が過去であるということは疑うことが出来ます。つまり、過去としての信頼を喪失させることが出来ます。逆に言えば、過去として認識される認識は、それが過去であるという信頼のもとで成り立つ認識であることがわかります。この信頼はどこからやってくるのかというと、私にはよくわかりません。「そういう記憶があるから」と言うことで過去として信頼できるとすると、ある認識に「記憶・思い出」という抽象的な認識が同時発生するとき、それが「過去」として強く信頼されることとなります。そして、その記憶の正しさとは信頼の問題であり、では何がその記憶の信頼性を生み出しているのか、はたまた、なぜある認識に「記憶」という認識が同時発生して、他の認識と著しく区別されるのかは、信頼異常が無いと説明できません。信頼異常とは、少なくともLc(この現実の論理)で説明不可能な信頼です。我々は、何も考えずに生きていればこの世界に"正常"に存在し、ここで起こる出来事を認識し、その後それを「記憶」として認識します。つまり、特定の性質を持った認識はなぜか特殊な信頼を付与され、その結果過去という認識が生まれるのです。

この世界は論理的に説明されるように見えますが、その根本的な部分である我々の認識には、どこかで根拠の無い信頼を入れないと"正常"に世界を説明できません。これは認識の局在であり、ともすれば、その局在から逸脱することも原理的には可能です。つまり、過去として謎に信頼されている部分に自分の手で信頼異常を入れて信頼を棄却することで、過去の認識から排除することが可能です。