一つの認識描像

なぜ物理は数学で記述できるのか?という謎について少し考える

物理学は自然に対する経験認識から抽出されるものですが,数学は公理のもとで構築される論理的構造物です.物理法則は数学的に記述可能であることが多いのですが,これは全く自明ではなく不思議なことです.これについて,少しだけ考えてみようと思います.私自身まだよく分かってはないので,以下の議論にはいろいろと怪しい部分や足りない部分がありますが,参考までにということで.アイデアの共有のようなものです.

物理学に限らず自然科学の体系は,「因果」という認識を積み重ねるものだと考えています.以前の記事で,因果は認識の比較によるのではないかという考えを書きました.つまり,ある認識Aが認識Bの原因であるとは,「もしもAが無ければBは認識されなかっただろう.」という認識に依るということです.これは,Aが存在している場合の認識と,Aが存在していない場合の認識を比較しています.そして,この現実の経験認識は「なぜか」,「時間が経過しても」得られた因果的認識が変更されないように思われます.物理法則の時間並進対称性です.認識の観点からは「時間」という概念はもっと別の言葉で記述される必要があるのですが,今はとりあえず良いとします.例えば,ドミノ1とドミノ2が並んで立てられているとして,ドミノ1が倒れてドミノ2にぶつかり,ドミノ2も倒れます.これは,経験から得られる因果的認識です.このように,ある状況を認識して,その認識が変化した時に別の認識の変化が起きるという特徴的な認識を認識の変化特性と呼ぶことにします.この変化特性はいつまでも変わらないように信頼されます.一時間後にドミノ倒しができなくなるなんて言っても,誰も信じてくれないでしょう.もちろん変化特性が不変である必要性はなく,ほんとにドミノ1がドミノ2をすり抜けるようになってしまう可能性は誰にも否定できません.しかし,現実とは不思議なもので,そんなことは今まで起きてこなかったみたいです.このように,経験認識の比較に依って抽出される認識間の推移(A→B)を「因果的推移」と呼ぶことにします.

対して数学では,推論が用いられます.推論のことをここでは「論理的推移」と呼ぶことにします.推論は概念の構成法と「⇒」の意味に依存します.例えば,リンゴならば植物ですが,これは植物という概念が定義からリンゴを内包しているため,リンゴという集合を植物という集合が包むようになっています.集合の名前が概念であると考えれば,「A⇒B」は「AはBに包含される」という意味であると捉えることが出来ます.自然言語は曖昧な部分を持つので分かりづらいですが,数学で扱われる概念は「よく定義され」ていて,曖昧さがありません.これは,ある概念が示す集合に,別の概念が入るのか入らないのかがはっきりしているということです.数学は集合と写像の言葉で記述されており,写像とは2つの集合の元の対応関係です.「集合とはなにか」というのを定める公理が存在しており,現代数学は公理論的集合論の上に展開されています.ここでは,数学における操作,つまり論理的推移は,ある規則に基づく概念の対応関係であると考えます.

概念とは認識です.我々が扱うものはすべて認識なので,まあ何も言っていないといえばそうですが.なので,概念間の対応は認識間の対応であると考えられます.そして,因果的推移も,認識間の対応でした.つまり,「因果的推移と論理的推移の対応」が物理を数学で記述できる理由なのではないかと考えられます.
では,なぜ対応するのかというのが疑問になるところです.この辺は全く考えを詰めることができていないのですが,可能性としてはいくつか考えられます.物理量の時間発展を見たい時,何がその物理量を増減させるのか,というのは因果的認識です.その増減の原因をも何らかの相対的指標に依って数値化出来たとすれば,ある時間ステップで1ステップ後に目下の物理量がどのくらい変化するのかというのを考えることが出来ます.これは,「今の状態」から「次の状態」への「特定の規則に従った対応関係」であり,状態は数値でラベルされているので,数値から数値への何らかの対応と考えることが出来ます.つまり,写像とみなすことができるのです.これを数学的に,極限という概念を用いて書き表わせば,微分方程式になります.つまり,因果的推移が与えられるとそれは認識と認識の対応を示し,その対応は何らかの規則に依ります.その規則を論理的推移として,つまり特徴的な写像として表現できれば,これは物理を数学で記述していることになると考えられます.これが可能であるのは,論理構造がある種経験認識に迎合した形になっているからではないかと思います.例えば,物体が落下していて,かつ落下していない状態というのは認識(観測)されません.これは排中律に対応します.物理的な概念が根本的には経験認識の集合であるので,物理的状態を集合的に扱うことができるというのもあるかもしれません.なかなかふわふわしたお話になって申し訳ないですが,今後も考えていきたいと思います.