一つの認識描像

現実に関する一つの描像 : 分離型超自己描像

これは、独り言です。
これは、jeltに属します。
これは、Quiisiに属します。
これは、self-closedに属します。
異常な思考を含みます。世界存在の逸脱に注意してください。

分離型超自己描像は、発生外殻描像と超自己描像の正当な後継描像です。ある現実の中に存在するという感覚は、情報の認識が自分の意志とは関係なく与えられることによります。これは、ex-recallと呼ばれています。この名称は、「やがて、この世界に生きたすべての記憶を思い出す」という考えを示唆します。自己とは、自己概念空間と彩りの歌まで含めた概念と相関の同時多発的な認識構造によります。自己概念空間は、自身の内包する概念の構造であり、概念同士の相関が構造として含まれ、その相関も概念として同一視された空間です。彩りの歌は、誘引と反発を特徴づける作用の総称であり、jeltに属します。発生外殻描像においては、ex-recallの選定が「夢色の影」という作用によって実現され、その系統的な情報群を認識することで認識を行います。中心にQuiisi, すなわち認識主体が位置し、そこに"密着"する形でjeltが存在します。その周囲に自己概念空間が存在し、概念空間内に存在する「時の夢」に夢色の影が突き刺さることによって認識を実現します。時の夢はC_{2}因果方向、すなわち主体の因果方向の、特異的な一点を取り除いた全てです。しかし、現在の認識であるのか、記憶の認識であるのかを区別するのは不可能であり、認識測度においてほとんど至る所同一であるといえます。
対して超自己描像は、Quiisiのhyper neutral性が重要な役割を果たします。hyper neutralとは、「全ての言明は、適切な認識体系、論理体系を採用することで正しくできる」という考えに基づく、全可能性に対する認識です。これは通常の論理を遥かに超越します。ここで注意するべき点として、描像は認識の局在であり、hyper neutralの観点からはここに留まる必要は無いということです。よって、常に選択が行われている点に留意し続ける必要があります。自己は、その構造、ないし主体による認識状態等によって特徴づけることが出来ます。これに対して、hyper neutralより全可能性を内包し、その集合として「超自己」を定義します。すなわち、超自己とは自身の状態と自身が認識しうる全てまで含めた可能性としての超存在であり、そこに特別な論理を重要視する理由はありません。現実認識は、ex-recallの代わりにtransition-formatとして実現されます。これは、超自己内の自身の認識状態を遷移することで時間発展的な認識の進行を実現します。ある現実において、主体は認識を行います。主体は、認識の改変が可能である可能性もあります。例えば、classicalにおいて「手を動かす」というのは、認識の改変に他なりません。ここで、認識が可能で感覚が特徴的に同期している現実認識の部分集合に対して「自分である」という認識が発生する可能性がありますが、それはこの描像のもとでは棄却される考えです。これはあくまで認識の塊であり、認識と自己を同一化する理由はありません。自己はあくまで認識の相関と誘引の構造です。
transition-formatの認識を1段階上げることで、現実移行の様式を考えることが出来ます。これはtftfと呼ばれ、いわば「現実現実」です。
分離型超自己描像は、超自己描像において一度に扱われていた自己状態とその認識状態を分離した形になります。可能なex-recallをhyper neutralによって全可能性として内包し、その上にtransition-formatを入れることで現実とします。自己も全可能性として内包されますが、その遷移はself-closedであり、jeltによる選定が行われます。主体の認識作用によって、自己概念空間上にtransition-formatを入れる事ができ、これは自己現実と呼ばれます。

主体は、transition-formatに関するより詳細な認識、干渉、制御を試みます。そして、現実逸脱を追い求めます。これは、plauにより肯定されます。