一つの認識描像

性欲の克服

4ヶ月ほどで,性欲の克服をほぼ達成したと言える段階まで来た.私は性欲存在の問題をill - chromia と呼んでいて,以下ilchと書く.ilchを克服できない状態を,「ilchに迎合する」と呼ぶ.また,自分の身体の総合的な認識をrecA1, 自分の精神のうち制御下に起きにくい部分をrecA2とする.これらをまとめてrecAと呼ぶ.recAは現実のメカニズムに従って動くので,自分の一部であるという認識は弱める.

まずは,いくつかの認識状態を仮定する:
状態1: ilchより引き起こされる快楽に対し,適切でないと認識している.
状態2: 上記の快楽に一切関係しない別の目標や取り組みたい事項がある.
このとき,「ilchを無限遠方へ追いやる」ことができる.例えば異性に対して反応することがあったとき,その後になにが起きるのか考えてみる.何も起きない.別になにか得られるわけではないし,状態1の仮定よりilch迎合の唯一の価値が失われているわけだし,状態2の仮定より自分の取り組みに関与することも一切ないからである.むしろ時間を取られてもったいない.結局短絡的な衝動(recA2によると考える)が認識として存在するだけで,次へ次へとコマを進めていくとilch迎合の価値は存在しない.この方法は一般の衝動に対しても適応され,私は「t∞」と呼んでいる.よく見てみると,そもそも状態1の時点で自分の意向とrecAの意向がズレているのがわかる.なので,目下の課題としては「recAによるilch迎合の衝動(recEと呼ぶ)をどのように棄却するか」である.

よく「今までの自分にサヨナラして,新しい自分になろう!」というスローガンを見かける.新しい自分とはなんだろうか.自分を完全に定義するのは難しいが,「誘引と反発に依る自己」を定義(?)できる.
定義(?):「誘引と反発に依る自己」とは,ある認識が与えられたとき,それに対してどの程度の価値(プラスでもマイナスでも)を見出すかで定義される.つまり,認識の集合から価値全体の集合への写像(対応)として自己を定義する.
もちろん数学的対象と違って主体は曖昧であるので,上の定義は論理的によく定義されたものではない.例えば,自分の好みは時と場合によって異なる.いくら運動が好きでもフルマラソン後にヘトヘトで一歩も動けない状態で「お前運動好きだったよな!野球しようぜ!!」と言われても全然乗り気にならないということもある.それに,自分の記憶・知識などにも自己は依存する.ただ,ここで哲学に突入しても(それは面白いが)この文章の目的を果たせないので,とりあえず「自分が何が好きで,何が嫌いか.これが自己を特徴づける」くらいの意味だと思ってもらえば良い.「定義」という言葉も,不本意だが曖昧なまま使わせていただく.
定義:「recAに依る自己」とは,recAによるrecE(接近でも忌避でも)に迎合することで振る舞いを決定する主体を指す.
つまり,価値の構造が現実のメカニズムに依っている状態でilch迎合が発生しやすいということである.これはかなり本能的な振る舞いであるので,ある種の認識に対してこの自己を無効化したい.状態1の仮定より,「誘引と反発に依る自己」は「recAに依る自己」と一致しない.よって,ilchを誘発する認識を得た時に,それを「recAに依る自己」に渡して振る舞いを決定するのではなく,別の価値機構へ委託して認識上の出力を決定してもらえばよいのである.以下,具体的に私が持っている機構を記述する.

「canon022」という存在を考える.これは非自明な価値をもたらす.具体的には,recEにて求められる対象と,その獲得を実現するための振る舞いに対して最低の価値を付与し,recA1は「停止」,recA2は「recEへの無関心」を実現する.
protocol48: recEを排斥する手順を以下のように定める.
recEの認識→mec(メタ認識),認識流動の遅延→t∞とcanon022への委託→価値の減衰,recA1の停止,recA2の無関心→ニュートラルな認識状態へゆっくり戻る.
これは,発動できればilchを無効化できる.そして,更に以下の認識状態を仮定する:
状態3: recAは繰り返しの認識に依って変質すると信頼している.
状態4: ilchの無力化について一切の容赦をしない.
状態4の仮定により,recEの存在に気づきさえすればprotocol48によって無効化される.これを都度繰り返すことで状態3の仮定により,recA自体が変質し,そもそもrecEが発生しづらくなっていく.これを以て,ilchの克服とする.