一つの認識描像

インターネットをやめたくてもやめられないときに:認識の観点から

インターネットに触れないようにする方法やメリットなどは豊富に出回っているし,こんな記事書いても要らぬお節介かもしれない.まあ実際にそうだと思われるので,私なりの書き方で無駄な記事を書いてゆく.

1. over information

この記事を見ているということは,インターネットを辞めたいということだ.それでもついつい見てしまう.心理学的に見れば,行動が強化されている状態と言えるだろう.とりあえずブラウザを開いて特定のページに移動することで,脳が報酬を受け取る可能性がある.このとき,単に人間の性質として,この行動が強化される.別に,ここにあなたという具体的な認識主体を当てはめるまでもなく説明される.なので,まずは自分を責めないことだ.辞めたいと思っているのは,第一段階をクリアした状態である.
ここからは脳というよりかは認識に焦点を当てて,認識上で何が起きているのかを考えてみよう.まず,ここでの問題をover informationの略でoiと呼ぶことにする.インターネット上には,様々で莫大な認識がある.これが流れ込んでくるわけだが,それは往々にして心身を疲労させ時間を無駄に奪っていく.おそらくこれに危機感,ないし嫌悪感を感じて辞めたいと思っているのだろう.なぜ触ってしまうのか?普通に考えると,その先に魅力的なものがあるからと結論できそうだ.しかし一つの側面として,単に「大量の情報が流れ込んでくる状態」に対して一種の中毒状態になっていると考えることもできる.なんでもいいから何か動画を見たと思うなら,このような状態であると考えると説明が付きそうだ.これが正しいかは分からないが,このように仮定してみるのは価値がある.oiはこのような認識のもと命名された.とにかく受け取る情報を減らす.これを次の目標に据えて考察を続ける.

2. あなたの認識を奪って金に変える

認識上の問題を解決したいとき,バイアスが役に立つことがある.バイアスというのは通常正しい判断を妨げる悪いものだと考えられるが,それだけ強い作用を持つならばあえて利用するという手もある.自分の持つ問題と逆向きのバイアスを掛けて,認識上の問題解決の一助とすることができる.以下では,インターネットをやめるためのバイアスを構築しようと思う.
当たり前だが,インターネットは自然界には存在しなかった.それでもなおこんなに中毒性があるのだ.現在,人々の注目を集めることで広告することができ,それで利益を生み出すという経済の構造はありふれたものになっている.より高い利益を生み出すには,より強く注目を集める必要がある.そのために,人間の欲求は過剰に刺激されている.人間に備わっている情動・衝動のボタンを如何に上手く押すことができるか,というのが重要になってくる.コンテンツや広告を見ることくらいどうということはない,と考えるかもしれない.しかし,こういう分かりにくい影響こそ警戒すべきものである.外部から情報を得るということは,自分の中にその認識を取り入れるということだ.その時,認識の構造は多少なりとも変質する.人は高い汎化能力を持っており,認識間の結びつきはある程度抽象化され,他の部分へまで適応される可能性がある.そうすると,現実の情報を得ているときにそこから発生する連想・情動も影響を受ける.自己は,自分が何が好きで何が嫌いか,何かを見たときにどのような反応を行い,何を思うのか,ということで特徴づける事ができる.外部から欲求を病的に刺激され,認識に対する反応をも侵害されるとき,果たしてそこに本来の自己を見出すことはできるだろうか?
それ以前にインターネットは,自分について自分で思慮する時間を奪ってしまう.これは単に考える時間を奪うというのもあるが,何か自分が問題を抱えているときに答えをインターネットに求めることができてしまうというのも原因の一つだ.自分で構築するのではなく,外部にあるものから選ぶだけになってしまう.インターネットに居れば多くの外的な価値観・認識に曝されるため,自分の考えが流されてしまうこともあるだろう.自分の価値観を自分で構成できないなら,果たして自己はそこにあるのだろうか.たしかによく考えれば,説明可能な自己というものは無いということも分かるし,価値ということも無いと分かる.論理的に考えることは前提を必要とするので,前提は非論理的に与えなければならない.この非論理というものをどのように扱うかというのは本質的な問題になってくるわけだが,他者に曝されていると「論理的でない」として攻撃を受けることになる.このあたりを解決するためには,誰かの言葉を読むだけでは足りない.自分で深く考えて,自分で本当に認識上の経験を経て「分かる」必要があるのだ.インターネット中毒になっていると,そもそも考えてる途中で電子機器に手が伸びてしまって考えが深まることは無くなってしまう.
穏やかに深く思慮し,自己に固有の豊かな内的世界を育む.私はこういう存在状態が好きで,oiはこれを著しく阻害する.だから避けようと思い,今では適切な範囲にまでoiを抑えることができている.皆さんは何を好むだろうか.もしもoiを避けたいと思うなら,更に読み進めてほしい.

3. 具体的な実践

ここからは具体的にどうすべきかということを書いてゆく.極論,電子機器に触らなければよいのだが,解決を急ぐと大抵の場合失敗する.これの原因は,自己制御能力を過大評価していることにある.「このくらいできる!」と思うとき,それは大抵失敗に終わる.むしろ,自分は電子機器に触らないということも徹底できない,と未熟な存在に捉えてちょっとずつ変わっていくのが良い.自らの未熟さを認識するのは大切なことだ.
ちょっとずつ時間を減らしていくとか,時と場合に応じて使用を制限するとかは私が特別言う必要はないと思うので,以下の2つだけアドバイスしようと思う.
1) 「欲求」では無いと理解する
先程人間の欲求が過剰に刺激されていると言ったが,それは「あなた」の欲し求めることではない.情動というのは確かに認識として存在するが,それが即座に「自分が追い求めること」を意味すると考えるのは軽率だ.まずはこの判断を切り離してほしい.機械的に決まっていることを自己と切り離して,インターネットに触れたくなったときにまず「それは私の求めることか?」と問うてみよう.一瞬頭の中で唱えて見るだけで良い.そうしたら,情動は特徴的な認識で,でも自分の行動選択とは離れたものだと感覚できる日が来るはずだ.「情動は単にそういう認識があるだけ」という風に唱えてみるのも良いだろう.
2) 疑問を持つ
辞めたくてもやめられないというのは問題ではあるが,それはそれとして認識現象としては結構不思議というか,興味深い.インターネットに触れたいと思うその情動の正体は一体何なのだろうか,ちょっと観てみようか,と考えてみる.そして,実際にその衝動が来たときにそれを保持し,注意深く観察する.ぎゅわぁ~んみたいな感じなのか,じゅしゅよゃーみたいな感じなのか,色々あるかもしれない.また,やめられないと言うか不安に感じることがあるかもしれないが,その感覚だけで終わらずに理由を考えてみよう.どういう考えがあって,つい触れてしまうのか.それは本当に重要なのだろうか.そもそも心理的な別の問題に起因するのでは・・・などなど気づくかもしれない.

私の独り言は以上である.みなさんが見せかけの「幸福」を振りかざす世界から脱却して,強く穏やかに暮らしていけることを願う.