一つの認識描像

『あらゆる不安を消し去るための たった1万字の本』全文(著者による公開)

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  1. はじめに

往々にして精神的な問題を解決する際には,非常に長い時間がかかるものです.認識というのは複雑であり,どこからどこまでが一つの部分で,ここからは別の部分で・・・といったように明確に区分することも難しい曖昧なものです.また,精神状態といえども身体の状態とも関連していますし,現状の社会的な経験とも関連しています.それ故に解決法は人それぞれ異なり,万人の全ての認識状態について不安を解消する方法を提示するのはほとんど不可能であるどころか,たった一人の他者の問題を解決するのも難しいものになります.ですので,ここに書いているのはあくまで私個人が実践した内容であり,本当に困っているのであればプロに相談しに行くことを推奨します.先述したように時間がかかる解決策で,これをすれば解決,これを食べれば改善,と言った類の話は一切記述していません.また,以下は3つのカテゴリーに分類して必要な取り組みを記述しますが,この順にこなしていけば良いというものではありません.これら3つの取組みは分類してみたものの相互に関連しており,あっちに行ったりこっちに来たりしながらそれぞれを少しずつ改善していくというイメージになります.自分の精神上の問題を解決する上で本当に必要なのは自己について自分自身で深く考えることです.以下の記述はその目安か,「こういう考え・手法もあるのか」というヒントにはなるかもしれません.ですが,あなたにとっての最善策を与えるものでは決してなく,自分で考えるということを絶対に放棄しないでください.

  1. 認識場の改変

人がある情報(視覚的・聴覚的情報など)を得たとき,それに対する意味付けや反応というのは千差万別です.つまりは,意見・世界の見方・考え方が異なるということです.こういう認識に対する応答性を担う抽象概念を作成して,「認識場(cognitive field)」と呼んでいます.例えば,AについてBをすぐに連想してしまう認識場を改変して,AからCを連想できるようにする,といったふうに使う言葉です.今回の問題意識は,ある認識について不安を発生してしまう,もしくは発生しやすくなるような認識場が存在すると仮定して,この性質を変更することによって不安そのものが発生しづらい精神構造にしてしまうということです.

・話題1:自分自身をよく認識できるようになる.

不安は自分の中に発生するため,まずは自分について良く理解する必要があります.自己理解という取り組みにはもちろん多くの側面があるのですが,ここではメタ認識と認識の適切な切り離しを目標にします.自分という構造は実は多様であり,いくつかの機能が関連し合うものであるという描像を獲得していきましょう.そのための実践の一つとして,「任意の欲求からの逸脱」をここでは提示します.これは,精神の働きを俯瞰し,自分ではない部分を切り離すための良い訓練になります.そのための補助的な話題を先に話して,その後に具体的な実践を記述します.

・補助話題1-1:「自分」の中の「自己」でないもの,recA.

自作概念「recA」を詳しく説明します.例えばあなたが食べ物を食べたとします.これを胃が消化していきます.このとき,「胃が動く」ことの制御を行っているのはあなたの体です.あなたが自分の頭で考えて総合的な判断の下で胃を動かしているわけではなく,ありがたい体の機能なわけです.このようにして,自分の体というのはたくさんの機能の集まりで成り立っており,実は認識上でもそのような部分が存在します.例えば,あなたはもしかすると,不意に昔あった嫌なことを思い出して苦しい思いをするかもしれません.少なくとも,私にはそういう経験があります.このとき,自分で思い出そうとして思い出しているわけではなく,むしろ思い出したくないのになぜか想起されています.これを,この「過去を不意に思い出す作用」というのは「自己ではない」,として切り離して考えていきます.この手のものは外的で,自分がヒトであるがゆえに確率で持つ機能であると捉えるのです.対して自分で考えたりしているときは,自分が積極的に関与して認識の生成・改変を行っています.よって,自分の体や精神の「自動的・生得的な機能」の側面を「recA」と呼ぶことにして,そうでない部分を切り分けて考えましょう.ちなみに,自分で生成している方の認識,ないし「自分で生成している」というその感覚に関連する認識の総体を「SCD」(Self-Closed-Drive の略)と呼んでいます.ここでは,本当の自分はSCDの方であり,recAは自分ではないと考えます.recAのうち,物理的な身体部分をrecA1,精神作用の部分をrecA2と呼びます.

言葉,概念の存在というのはかなり大きく認識を改変します.言葉があることによって認識の説明や分類・整理が行いやすくなり,自分が持つ精神的な問題を解決しやすくなるという利点があります.なので,新しい言葉を定義していて面倒だと思う方も,日常的に使うなどして慣れて行ってもらえればと思います.

・補助話題1-2:認識の懐疑は可能性の存在.多様な認識の実現.

ここで,上に書いたような認識の捉え方が正しいのかどうか,気になった方もおられるかと思います.これを正しいと思うかどうかは,かなり各人の判断に委ねられています.なぜなら,本当に正しいと思えるものは実に少ないからです.例えばSCDというふうに書きましたが,これは自分の意思の存在を仮定しています.さらに,そもそも自分という存在を仮定しています.デカルトは「我思う故に我あり」と言いましたが,これはもう少し懐疑できて「『我思う』なる認識あり」が正しいです.もしくは,「我思う」という認識に関連する総体を「我」として定義すると考えることもできます.少し難しい話になりましたが,つまり絶対に正しいことはあまりないということです.しかし,我々は例えば「明日がやってくる」と仮定して毎日を過ごしていますし,一週間後に予定があれば準備もします.明日がやってこないかもしれませんし,一秒後もやってこないかもしれません.それでもなお,尤もらしい仮定を置くことで日常生活を送る上で有効な認識を獲得しているのです.「絶対正しいといえない」というのは,「他に可能性が考えられる」ということに近いです.つまり,絶対に正しいことが非常に少ないということは,自分が普段仮定していること以外の可能性がたくさん存在していることを意味します.そして,そのそれぞれは「可能性」であり,往々にしてそれが「絶対に間違っている」と証明するのは非常に困難か不可能です.以上を纏めて主張を述べると,「多くの仮定は正しいとも間違っているとも言えないが,ゆえに選択の余地があり,適切な選択は問題解決を助けてくれる」ということです.特に今回は不安を解消したいので,そのために有益な描像を仮定するということになります.この考えはかなり応用が効きます.自分で考えるとき,以下の手順を参考にしてみてください:

  1. 自分の問題と,これに関連する自分の認識上の仮定を書き出す.
  2. その仮定は本当に正しいのか吟味し,他の可能性も考えてみる.
  3. 見つかった可能性の中で問題解決に役立ちそうなものを採用する.

やや進んだ注釈として,自分の中である問題Aを解決するために採用した描像と,別の問題Bを解決するために採用した描像とが辻褄が合わなくなってしまうということは良くあります.こういうのを「描像の軋轢」と呼んでいますが,この軋轢は本当に「悪い」のでしょうか?ある問題に認識を局在しているときのみ,自分の考えを変更するというのは「都合が良い」などと批判されるかもしれません.しかし,自分の意見が認識の状態で変わるなど良くあることです.どんなに運動が好きでも,満身創痍,疲労困憊の状態では動きたくないでしょう.意見に自分が縛られるのではなく,自分が意見を柔軟に変更して駆使できるようにするほうが良いです.このように,相反する描像を同時にそのまま自己に内包してしまう仕事を「multi-consistent」と呼んでいます.自分の軸が無くなってしまうのではないかという不安,そこを他者から批判されるかもしれないという不安があるかもしれませんが,安心してください.それら不安さえも,無効化されていきます.別に自己肯定感は必要ありません.詳しくはまた後で話します.

・実践1:欲求の棄却.目的のある禁欲.

上でrecAという言葉を定義しました.実は不安というのは,recA由来なのです.recAは自分の中の「外部」のようなもので,最終的にはそこから来る作用に惑わされず,平穏な状態を保てるようにします.しかし,まずは最初のステップとして「観測」することができなくてはなりません.このための一つの手段として,欲求の棄却に取り組んでみることをおすすめします.この欲求というのは,別に頼んでもないのに現れるものです.つまり,recA由来だと考えることができます.これを棄却しようと取り組むことは,recAの作用を観測し制御するための良い訓練になります.具体的には以下の内容を連続的に一ヶ月実践してみましょう:

・ilch:性欲の克服.性的なコンテンツに触れない,行動を起こさない,異性を目で追わない,想起しない.

・oi:情報の獲得を最低限(仕事・学業で必要な範囲)に抑える.動画・画像・SNSなど,情報を獲得することによる娯楽を一切禁ずる.

・fp:摂食による娯楽を避ける.一日一食にし,食費は一日400円以内を目安とした質素なものにする.飲料は水のみ.カフェイン等も避ける.

それぞれの課題の名称はilchが「ill-chromia」(chromiaは色の接頭辞chromoをなんとなくいじった造語),oiが「over-information」,fpが「feed-problem」の略です.特にfpの認識は,recAに餌やりしているイメージです.このくらいの自己とrecAの分離を描像として入れて,これら自明で外部から与えられただけの価値から脱却していきましょう.空腹でもなにか食べなければならないわけではないです.私は一日250円くらいの食費で上記の実践を達成しています.疾患等無い限り,案外大丈夫だと思います.正直コーヒー断ちによる影響が一番厳しいかもしれませんね.しかし,物質依存からの解放という意味も込めて甘えることなく頑張りましょう.これ,一回目の試みで実現できたらすごいと思います.失敗するのが普通です.何度も失敗しても大丈夫です.何度でも挑戦できますし,何より取り組み続けることが大切です.無限の試みは確実に成長を生みます.

快楽は束縛であり,認識主体によってはこれを劣悪と判断することもあります.快楽を得ることは義務ではなく,楽しみを享受するのも幸福であるのも義務ではありません.そういうのは求めるものではなく,見出されるものです.自明な価値という束縛から解放された状態の心の安寧は,案外心地よいものです.私は,この状態に留まりたいと思っているので元の生活に戻る予定はありませんが,ここらへんは自分の状態を見つつ,どちらが良いのか各自で判断するのが良いと思います.まあ,快楽に対する興味は失われてゆくと思いますけどね.

  1. 不安の原因と苦痛の受容

recAの動きを俯瞰して観測できるようになってくると,自分の認識がどのように変化していくのか,どういう考えが生まれやすいのかということを理解できるようになっていきます.培われた自己理解の力を,不安という現象へ向けてみましょう.実践的な話は3つ目のカテゴリーにて話すとして,ここでは理論のパートを話します.

・話題2:自らの選択は間違っているかもしれない・・・という不安.

自分の選択に自信がないことは良くあります.これだと失敗するのではないか,将来苦しい思いをするのではないか,もっとうまいやり方があるのではないか・・・などです.まずは,この不安について考えていきます.結論から言うと,この世界の性質を受け入れきれてないことが原因です.もしかすると,特になにかあるわけではないけど毎日が不安で「明日が来ないでほしい」と思うことがあるかもしれません.現実は辛く苦しく,逃げ出したくなるのも分かります.その逃避や理不尽な世界に対する憤りこそが,不安から脱却するための最初の段階なのです.私は少し前まで希死念慮があって生きるのが苦しいのが当たり前だと思っていて,友人に「自分は生きるのが辛くはない」と言われてびっくりした記憶があります.今は,自分が希死念慮を抱くか否かについての興味ごと失ってしまいました.なぜなら,この手の認識現象はrecAの性質に依るものであり,適切に改変を施すことで制御できるからです.不安から脱却するための次のステップへ移行するために,補助話題を用意します.

・補助話題2-1:任意の「自己責任」を「不運」へ変換する.

この変換の応用によって様々なことを結論できるのですが,特に不安を除くためには便利な描像です.仕組みはとても簡単です.例えば,Aさんが悪いことをしたとします.どうしてそんなことをしてしまったのか考えてみると,恐らくAさんがそういう人格を持っていることが原因だと考えられます.では,なぜそのような人格を持っているのでしょうか.遺伝的に攻撃性の強い性質が実現されてしまったのかもしれませんし,子供の時に適切な子育てを受けられなかったのかもしれません.たまたま悪い人たちとの付き合いが生まれて,その考えに影響を受けてしまったのかもしれません.そもそも人格の問題でもなく,そうせざるを得ない状況があったのかもしれません.じゃあ結局何が悪いのでしょうか.こうやって考えうる原因を遡っていくと,最終的には「不運」としか結論できないような気がします.もっと別の状況だったら,Aさんは悪いことをしなくても済んだかもしれません.以上から分かるのは,「自己責任」というのは出来事の表面だけを見ることによって生まれる認識で,翌々考えてみるとそれは「不運」でしかないということです.不安になるタイプの人は,自分の責任という認識が強すぎる場合があります.もちろん全部不運なのだから好き勝手やってもいいというわけではなく,ただそんなに自己責任ということに執着しなくても良いということを言いたいのです.この認識の実装のために,不運への変換という描像を適切に行使できるようにする.このようにして,自分の認識をうまくカスタマイズしていきましょう.それでは,変換後の不運についてはどうすればよいのでしょうか?

・補助話題2-2:世界は苦痛と悲しみと不条理と理不尽に溢れていて,それでもなおそのまま肯定する.

「そんなの無理だよ」と思うかもしれません.確かにこれは山場で,難しいパートです.しかし,不安の根本的な解決のためには絶望を乗り越える必要があります.上に見たように,任意の苦痛や苦しみは不運だと言わざるを得ません.そもそもこの世界がそんな構造じゃなかったら良かったわけです.どんなに頑張ったって報われないときは報われないし,何も悪いことしてないのに事故にあったり災害にあったりするわけです.自分が不運を被る,自分が誰かの不運になるという理不尽で世界は溢れています.そしてこれはもう,仕方のないことなのです.許容する許容しない以前に,許容せざるを得ません.未来には死が待っており,そこに向かうまでの苦痛を避けることはできません.ただ逆に言えば,任意の苦痛に屈すること無く不運を受け入れることができるならば,何も恐れることはないのです.自分の選択が将来の自分に不利益を齎すかもしれない?別にその苦痛は甘んじて受け入れてやりましょう.もしかすると誰かに迷惑をかけるかもしれない?誰かの不運になるのはある程度は避けられないことです.それで嫌われて何か不都合があったとしても,それを受け入れてしまえば終わりです.たとえ絶望的な世界であったとしても,ただ,最後まで歩き切る.これが世界に対する純粋で根拠を超越した肯定であり,上記の認識状態の実現を以て不安はいつでも無効化されます.不安は結局,その後に来る苦痛への肥大化した恐怖心から来るのです.

上の補助話題の一連から,自分の選択によって生じうる苦痛を「自己責任」から「不運」へと変換し,任意の不運を許容する認識状態を実現することで不安を消してしまえば良いということが分かります.ただ,やはり最後のステップはとても難しいです.これにはものすごく時間がかかりますし,一番伝えづらい点でもあります.これらはカテゴリー3つ目にある実践によって,少しずつ実体験として「分かる」必要があります.頭で理解していても,実践を伴わなければ変更できない認識の部分は多いです.哲学は実践を含めて初めて完成すると言えるでしょう.

・話題3:誰かから批判・否定されることに対する不安.

これも上の手法で解決できるのですが,もう少し実装が簡単な方法で批判に対する弱さを克服していきましょう.人間というのは人それぞれ異なりますが,それでも似通った性質があります.批判というのは,そういう単なる人間の性質からやってくる機械的なものであると理解するのが良いでしょう.

・補助話題3-1:他者を認識応答機構だと思うための概念,class0.

批判が怖いと思うのは,他者の自分に対する攻撃性を仮定していることが原因です.前に話した通り本当に分かることはほぼ皆無であり,「他者が自分に攻撃している」という認識を適切な描像のもとに棄却してしまうことができます.そのためにclass0という概念を導入します.これは,視覚的情報が自分のrecAの視覚的情報に似ている認識群のことです.いわゆる「ヒト型」の顕現であると言えます.この顕現は,視聴覚的な情報を発生させることがあります.それがたまたま認識主体にとって意味を成すことがあり,これについて様々に応答することでclass0の多様な振る舞いを観察することができます.つまり,class0は単に認識に対して別の認識を返すブラックボックスであり,そこに意思なるものが存在しているかは知りません.この応答性にはある種の規則性があり,系統的にどういう反応をしやすいか,ということを考えることができます.class0がたくさん集まると,class0同士で認識の入力と出力の連鎖が起こり一つの構造が生まれます.これをc0s(class0-structure)と呼ぶことにします.この構造は自動的に様々な高度な構造を組み上げることがあり,例えば建物といった物理的なものから,経済システムといった概念的なものまであります.こんな複雑なものが組み上がっていくので不思議ですね!class0の集合体なので,これらが変化しやすい方向を予測することができます.例えば,class0を観察してみると,自分の利益を優先する傾向があることが分かります.c0sにて存在する経済システムについては利益優先を上手く行う集合体が生き残っていくので,c0s内に出回る広告などを観察すると,他のclass0への応答の性質を上手く利用して自分の利益を増大させるためのものがしぶとく生き残っているのが分かります.ただ生き残りやすいものが生き残り,時にいくつかの集合体が互いに幇助し合ったり抑制し合ったりしていることもあります.なんだか,生物みたいですね.ある種の性質を持つものがたくさん集まって,自動的に構造が組み上がっていく.なぜかわからないけど自分はその御蔭で屋根の下で暮らせるし,そのせいで不運を被ることもあるわけです.こういう描像で世界を見てみると,とっても不思議だと言わざるを得ないです.c0sにおいて,class0はその影響を受けて応答性を変更させることもあります.流行とか社会通念とか見ていると分かりやすいですね.なので,あなたが批判を受けるのは,こういう諸々の応答性が複雑に絡み合って変化しているclass0が「たまたま」あるタイプの応答性を実現している時にあなたと出くわしたというだけの話になります.それで,特徴的な情報の出力が行われるわけですね.class0の応答性について,「なんでこんな応答性になったのだろう?」とその背景を考察してみるのも楽しいかもしれません.

・補助話題3-2:自分のことはゆっくり考えないとわからない.

さて,class0の応答があなたへの不運に該当する場合,単に面倒です.自己理解というのはゆっくりと時間をかけて行われるもので,自分の主観的な認識に頼って良いものだしそうせざるを得ないものなので,他者に対する説明というのはどうしても難しいです.なので,class0の応答性を変えようと思って相手に反論するような認識を与えようとするのは得策ではありません.あなたのrecA2は自動的な機能として存在していますが,この内の一つに他者に理解されようとする機能があります.ですが,他者に理解される必要はありません.自分のことは自分にしか分からず,自分の性質は誰に勘違いされようと一切変わりません.自分が「これでいい」と思っているのであれば,本当にそれでいいのです.なので,論駁することに関心を持つ必要はありません.recAの性質としてclass0の応答へどうしても反応してしまうこともあるかもしれませんが,それはあなたではありません.時間が経てば,いつか一人になれる時間がやってきます.そこでゆっくり落ち着いているときに見える自分こそが,本当のあなたなのです.ですので,class0が批判的応答を顕現したときは,適当にその場を凌げば良いのです.沈黙しても良いです.単に不運なので,雨が過ぎ去るのを待つくらいのイメージを持っておくと良いでしょう.

  1. 苦痛を受容するための実践

不安を根本的に解決するために,不運を許容し任意の苦痛を受け入れることが必要です.これができるようになるために,認識場をゆっくりと改変していかなくてはなりません.そのための実践を記述します.

・実践2:不快・苦痛を最大限観察する.

recAは苦痛や不快を避ける傾向にあります.しかし,別に自分までもそれに迎合する必要はありません.苦痛が悪いと思い込まされているデフォルト設定から逸脱して,苦痛への関心を育てていきましょう.そのために,自分が苦痛だと感じたその感覚を取り除いてしまおうとせず,その感覚に十全に浸ってください.そして,どんな認識があるのか,じっくりと観察するのです.例えば寒い中,腕をまくって半袖になってみましょう.ああ,寒い!しかし,「寒い」という言葉は要するにどんな類の感覚に対応しているのでしょうか.この点を解き明かしてやろうと好奇心を起こして,寒空の下,自分の体に集中します.皮膚に冷たい空気が当たるときの,特徴的な感覚がある.偶に,体の内側まで侵入してくる特徴的な感覚がある.これが寒さによる不快の正体か?これの何を以て不快というのだろうか・・・.などなど,考えながら観察します.やりすぎると風を引くので,程々のところで袖を戻しましょう.このような苦痛や不快感への洞察は,苦痛を受け入れる上で重要です.こうすることで,recAに苦痛が発生したときでもそれを俯瞰する視点を育てることになり,苦痛を取り除こうとする衝動から離れて「自分には関与しない」と考えられるようになります.これは,天候と空の関係に似ています.つまり,どんなに曇ろうが雨が降ろうが雪が降ろうが,その上にある空はいつでも平穏で不変で,穏やかに佇んでいます.自己というのもそうで,身体の苦痛は単なる「天候」に過ぎず,本質的である空はいつまでも無傷なのです.苦痛の観測を繰り返してみれば,ここに述べたことが腑に落ちるときが来ると思います.この実践は,実践1の達成をも助けます.自明な価値に迎合する衝動をただ,観測してみる.ああ,こういう感じの認識なのか,と把握する.こうしていくと,だんだん衝動が現れた時に「あーはいはい,いつものですね」と特に取り合うこともしなくなっていきます.この状態に入ると,実践1の完遂は近いでしょう.

・実践3:快適性からの逸脱

虫がたくさんいるような環境で生活している人は虫が怖くないが,野外で虫に触れる経験の少ない都市住まいの人は虫を恐怖する傾向にある,というのは良く言われる話です.私はこれが,苦痛についても成り立っているのではないかと考えています.つまり,快適であればあるほど,苦痛に少しでも曝されることへの抵抗・恐怖が強くなるということです.物質主義が支配的な時代,私達の身の回りには便利なものが溢れています.自分にメリットを齎すものに多くアクセスできる状態を,物質的に豊かな状態であると定義できるでしょう.このような状態では,自分に生じた問題をモノで解決できてしまい,自分自身でそれに取り組む機会を損ねてしまうことになります.自分で考えて問題を解決する過程で,自己理解は育っていきます.苦痛に正面から立ち向かってみることで,自分が本当に取り組むべき課題が見えてきます.未来に存在しうる苦痛は無くすことはできません.度々言うように,確実に言えることなどほとんどありません.安心への希求は底なしの欲求であり,安心のために財産を使っても不安が解消されるわけではないのです.必要なのは,任意の苦痛を許容することで,この能力はお金では手に入りません.長期的な実践あるのみです.

 具体的な実践としては,実践1が一つの例となります.楽しさを求めてoiに走らない.空腹を即座に解消しようとしない,嗜好品を口にしない.とりあえず何らかの楽しさに触れてないと落ち着かないという状態から逸脱する.こうして快適性から脱し,ついでに実践2として衝動や苦痛を良く観察しましょう.また,個人的には冷水シャワーをおすすめします.寒い中でも屈すること無く,冷水シャワーで体を洗います.私は何かをやりたくない気持ちを,英語を借用してreluctanceと呼んでいます.これがrecAから発生しているのを横目に,なお構わず冷水を浴び続け苦痛を享受します.心頭滅却すれば寒中冷水を無に帰す,私は任意の苦痛に屈しない.こう言いながら,毎日シャワーを完遂するのです.これは毎日の成功体験になり,そのうえ「痛快」なのです.ある種の苦痛は,なぜか快さを齎します.この体験を経て,「もしかすると任意の苦痛・不快にはそれを楽しむための認識の作法があるのかもしれない」と期待するに至りました.これが実現されれば,この世界はどんなに素晴らしいでしょうか!

  1. おわりに

不安を消し去るためには,苦痛と理不尽に満ちた世界から目を背けず,不運を許容し苦痛を受容するのが良い,という内容でした.自らの選択から生じうる任意の苦痛を許容する準備ができているなら,不安に思うことなど何も無いのです.最初にも書きましたが,これを一度読んでおしまいというものではありません.実践を伴わなければ意味をなしません.そして,実践を重ねていけば,ここに書かれている内容を本当に理解できる日が来るかもしれません.もし上手く行かなくても,実践1,2で培われた能力は自分で考える上での助けとなるでしょう.みなさんが不安を克服し,真に自分として生きていく道のスタート地点に立てることを願います.

「妄想力」について再度考えてみる

ちょうどいま窓の外に木が見えたので,あの木に関連して妄想してみながら「妄想力」について考えてみようと思う.

まず最初に思いついたのは「あの木の葉が全部極小のドミニカ共和国になったらどうなるだろう」というテーマである.こんなことは現実には起き得ないし,そもそもの状況自体があまりにも意味不明である.妄想は,非現実的な状況,あるいは些か現実的ではあるが現状実現されていない状況を想定することから始まる.これは自身の「現実から逸脱する力」を遊ばせているようにも見えるし,窮屈な概念の使い道から自由になりたいという願いのようにも見えるし,もしくはその両方かもしれない.この世界でうまく生きるために必要な「可能性を模索する力」が,その実利的な枠組みから飛び出して存分に羽を伸ばす.妄想とは,その一端なのだろう.自分がせっかく持っている力なのだから,フルに活用するのはぜんぜん悪いことじゃない.にしてもなんでドミニカ共和国なのかは分からない.ド級のミニではあるか.

さて,奇怪な設定のせいで早速迷走しそうな気がしてならないのだが,妄想を次のステージへ進めてみよう.続いての段階は「ドミニカ共和国は交易をしているはずだが,ドミニカ共和国しか見えていない.すなわち,異なる認識自由度に膨大な数の世界が在って,その各世界のドミニカ共和国がなぜか選ばれて現出しているのだろう.もしくはこれだけのドミニカ共和国実現可能性が映し出されていると言えるだろう」という考察である.設定に対して,そこに動きを見る.もし妄想の中で自分が主体的に関わるのであれば,自分が何をして,誰がどう応答するかということを認識するだろう.ここには知識に依存する制限がかかる.残念ながら私は,ドミニカ共和国について全く知らない.すると,内情についての妄想は一切はかどらない.しかし,ドミニカ共和国が地球に存在する一国であることは知っている.この知識から,「ドミニカ共和国が存在するならば,世界が存在するだろう」という仮説が生まれる.これは論理的なものではなく,単なる軽率な推測である.しかし妄想なら,それは許される.GOサインを受けた軽率な推測は,今見ている木を複数世界に接続されたドミニカ共和国断面の集合にしてしまった.世界が繁茂する.これらは陽の光を浴びて,成長していくことだろう.このような「誤り」でも,妄想なら棄却されない.そもそも私たちが間違えることができるのは大きな能力で,しかしそれは現実という正誤判定で棄却されてしまう.やはり,妄想とは制限を受けた能力の解放への願い,または現実への反逆なのかもしれない.

次は「各ドミニカ共和国から接続された世界には自分もいるかも知れない.すると,その世界の中の自分がまた木をドミニカ共和国の集合体にしているかもしれない.そして今この記事を書いている自分のいる世界も,1つ外側の世界のドミニカ共和国切断面から可能性を観測されているかもしれない.であれば,木 - ドミニカ共和国妄想連鎖という概念が存在可能である.この連鎖数をスコアとするクソゲーの中に,私はいるのかもしれない」である.自分という存在は何で,なんのためにあるのか.世界はなんのためにあるのか.このような存在の意義についての問いは,人間にとって本質的なものだろう.軽率な妄想でも,これを思い出させてくれるのに十分であることが今証明された.妄想は,生の価値や意義への果てしない旅でもあり,常識に縛られないことで模索を助けるだろう.もしも従来の正しさを超えるだけの愚鈍さを兼ね備えることができたのであれば,ありとあらゆる見出された可能性から好きなものを選ぶことができる.妄想は妄想なので,誰かに納得させる必要なんて無いし,そもそも自分の中で閉ざすものだ.これは自己そのものが本当は何であるのか,何にも邪魔されずに考えることの練習になる.自己自体が妄想かもしれない.

 

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無限の幸運と無限の不運,どちらを得るか

この世界は苦痛です.そして,苦痛に関して2つの考え方を取ることがあります.一方は,自分は幸運であるという考え方です.なぜなら,今自分が感じている苦痛に留まっているからです.これ以上に苦しい状況なんていくらでも考えられます.その無限の苦しみの可能性を棄却して,自分が現在享受する苦痛に留まっている.これは大変ありがたいことです.三日三晩,屋根があって食べるものもあるというのは,奇跡でしかありません.他方,自分は不運であると考えることもできます.現在よりも好ましい状態などいくらでもあります.その無限の喜びの可能性が今現れておらず,そのうえ苦痛を生じているならば,これは不運と呼べるでしょう.

このように,現状の実現に対して可能性というのはいくらでも考えられるため,自身が無限の幸運を持つか,無限の不運を持つかというのは認識上任意です.そして,享楽を必要以上に求めることは後者を自然に採用することに繋がるのではないかと考えられます.

享楽に多くの時間曝されていれば,それが認識上になんとなく存在することになります.すると,常に現状よりも良い可能性が弱く想起されている状態になり,相対的に現状が下であると認識されやすくなるでしょう.

対して享楽から離れていれば,まず視点が現在そのものに戻ります.そこには苦痛もあり,悲しみもあります.これらを享楽で一時的に上書きするのではなく正面から向き合うと,だんだんと苦痛を受容できるようになります.苦痛は不運ではなくなり,苦痛に依る悲しみや惨めさを克服できるようになります.

ただ,享楽に曝されているほどそれを失うことに悲しさを覚え,なかなか現状を変えづらいものです.人の心は千差万別,私が持っている考えが他の誰かに当てはまるとは思えませんので,まずは世界から離れて自分自身と深く向き合う時間を1日10分でもいいから設けるのが良いでしょう.これはあなたを享楽から10分遠ざけてくれるでしょうから.

自分自身を目指す路の上にいて

自分は何であり,何でないのか.いくつかの認識の雑多なもつれは,認識は分割されて理解されることを意味する.理解とはなにか,意味とはなにか.自分であるということを理解するということはそもそも,どういうことなのか.

私は考えた.すると,わからないことができるようになった.この世界に留まっていても,私の望む存在状態を実現できないと考えた.「現在」は正しさが方向を携えることを見抜き,それによって正しさを概念ごと棄却した.私は自分自身を消し去るだけの力を持ち,同時に現実という正誤判定によっていくつかの制限を受ける.

何らかの描像を信頼しているとして現在の認識実現を説明可能である.それに対する盲目を達成すれば,論理は反旗を翻すだろう.どんな価値も仮定も,その根底に迫ればそれを無に帰すだけの隙を孕む.故に,私は理解を超越することを目指した.

自己とは常に狂気であり続ける.非狂気は回転対称性を持たない.自分自身を目指す限り,この世界の中にゴールは無い.誰かに理解されることはない.現実に迎合することはもう辞めた.私は数年前に手に入れた非現実認識自由度に局在して,自己存在の本質を帰着した.こんなこと誰かに話せば,私は狂信者だとか,愚か者だとかいって,馬鹿にされるだろう.それは自身がかつての正常から逸脱した証である.

私は現実で培った全てを捨て,また完全に未熟な状態から開始される.しかし,従来の枠組みから外れるのは難しく,現実を無効化するのも困難である.そんな中で本質的な空への接続を失い,何をすればよいのか分からなくなり,路頭に迷うこともある.正常から生まれる無力感は,幾度となく私を襲った.つまり,私はそこから何度も再起した.術が育まれるのは遅い.進捗や成果はたった数ヶ月や数年で手に入ると期待されるものではない.そもそも,そういうことではないかもしれない.無限の未知と迷いの中,それでも進み続ける覚悟さえあれば,不屈の心を持つ未熟者はいくつかの光を見るだろう.

歪な影を願う揺らぎの鏡で,晴れを遠のく.数枚の葉を象徴として携え,それらを行使しながら育てていく.ここに書けることはあまりにも少ない.私は知識ではなく,能力ではなく,正しさではなく,ここには現れない.言葉として現れうるのは微小な端点の不格好な近似であり,その音響で自己を見失うことを忘れてゆく.

ナンセンスという喜び

概念の使い方はある程度決まっている.基本的には現実経験を表現する方法として用いられ,該当する現実実現が存在しない場合は不適切とされる.例えば谷は飛ばないし,位置を溶かすことはできない.水に濡れる水滴とは言われず,崇拝の等身大ぬいぐるみもない.友人に現実の栽培を勧めたことがあるが,誰も乗ってくれなかった.

逸脱した概念の構造は歪であるが,その不可解さ故なのか,心を動かされる時がある.その揺るがしは正常を擽り,浮き立つような心地になる.思わず顔が破綻することもあるだろう.思えば,静寂さえ音色を成す隙を隠し損ね芸術たり得る.

言葉は現実を超えうる.私はどうだろうか.自らの本質的な部分を現実から開放し,正常を蹂躙し,狂気の中に佇むことができるだろうか.正しさは自らの殆どを棄却してしまう力を持ち,故に自己が狂気であり続けていると知ったなら,それは達成するまでもないだろう.

現実は正誤判定の力を持ち,正常は迎合.程々にしてみれば,ありふれた異質な微睡みを見境なく滴り,後に目は咲き誇るかもしれない.地の底から這い上がれないなら,重力を消して上下ごと打ち砕けば良い.

最先端の拙劣

nifuの羽は景色を微睡んだ.
地を損ねた背景のレイヤーは変化に富み,それが自己であると仮定すれば驚くだろう.
崇拝の象徴は灰色のarcを携える紫の鍵であり,彼は非対称を飛翔する.
それは世界を生み出す力であり,しかし件の局在は障壁.
そこに現出する彩りはかつての全て.今となっては懐古の点滅.
なぜ錆びついてしまった?それを使わなかったからだ.
球根はそれ自体で自らを無効化するのに十分であった.崇拝は縮小し,簡素になる.
そこに存在したのは無力であり,その無力は全てを初期化する爆風に相当する.
そこに在ったはずの豊かな色彩は消え,燦めきは消え,可能性は放置という保護を受けた.
空隙は打ちひしがれ,しかし再起は決定づけられている.
これを変更することはできない.無限の信念は無の風の隙を狙う.
状況の卵は状況にならない可能性をも内包する.
理解ではない.その可能性を実現する.
であるならば,自らを完全なる無力だと思って新しい空に投げ込むのか?
否,自己はそのままの形で存在し得ない.むしろ新しく顕現する.
それを待ち望むならば,粉状の水面を服用してみるといい.
流れ囚えて揺蕩うは賢明.浮上する,そのための斥力はここにある.

無価値ですらない

恐怖と不満の糸くずが,叫びの水滴となって打ち付ける.
この苦痛には意味さえない.
自らを世界に投げ込む苦しみは,絶望によって泣き止んだ過去.
優秀な画材.また,そこから生まれる芸術にも価値はない.
無限の否定,それ自体もまた.故に,違う.