一つの認識描像

「価値の創造」の3つの実現

もっと多くにまで拡張可能かもしれませんが,取り敢えず3つにします.

1. 既存の体系に則る

一般にはこちらであろうと思われます(今回の記事で主張したいことではないので飛ばしても良いです).「既存の体系」というのは,例えばこの現実で言うと我々が備えている自明な価値ー快楽と苦痛≒誘引と反発ーです.この最も基礎的な部分があって,これを刺激する新たな方法を生み出すことが「価値の創造」と呼ばれると考える事が可能です.今までになかった便利なサービス,無くても生きていけるけどあると生活が快適になるもの,という感じです.これはどちらかというと,経済的な性格を強く帯びています.

2. 既存の体系をある程度足がかりにして,自らの価値体系を変更する

もっと主体的で社会構造に依存しないものとしては,自らの価値体系を変更するというものが挙げられるでしょう.我々には快楽と苦痛という,「価値のお試しセット」のようなものが備わっています.なぜ「お試しセット」と言ったかというと,これは変更することが可能だからです.快楽・苦痛に取り合わず,自らの達成したい目標に取り組む.これは確かに自明な価値への還元が可能なのですが,還元が可能だからといって全てを統合できるわけではありません.認識というのは明晰に扱うのは難しいものです.ある認識はそれ自体で意味を持ち,それについて考えるということは考える対象自体を改変してしまっている点に注意しなくてはなりません.例えば,「マラソンで一番になりたい!」と思って必死に努力したり大会で走ったりしているとき,「なぜなら一番になれば承認欲求が満たされるから!」という部分まで明白に認識が及ぶことは全く必然ではありません.外部からの分析でそのように説明されうるかもしれませんが,主体的な認識はただ一番を目指している,ここで価値判断のカットオフが入っていると考えることができます.
ただ,もちろんここに自明な価値が一切関与していないかというと,そんなことはありません.学問に打ち込むとき,「自分の興味のある事象について詳しく知りたい」というカットオフで行動することができますが,そもそも「興味を持つ」ための認識構造が備わっているからそれが可能である,と因果的描像をとって説明可能です.その惹き込まれる感覚,それ自体は現実によって与えられたものであると考えることができます.
以上を踏まえると,自明な価値・外的に与えられた価値構造というのは確かに現象の因果的説明に顔を出すが,そこを明晰に認識されない状態で何らかの事象に価値を見出す事が可能であると結論できます.因果認識がこの現実において実効的である以上既存の体系を足がかりにしていると言わざるを得ませんが,それでもなお単に快楽を求める・苦痛を避けるという認識を超越した価値構造を得ることができていると言えるでしょう.
この議論は,あまり良い議論ではないかもしれません.少なくとも,因果議論が非常に強い正当性を持つ,とみなさんが思っているのであれば,腑に落ちるものではないでしょう.そんな方は,以下の記事を読んでみてください:

みんな既に4次元を認識していて,因果はいつでも懐疑できる. - ?

3. 自明な価値と異なるがそれと同等以上の認識構造を創造する

これは未到達の領域で,現状私にはどうすれば達成できるのか分かりませんが,いつか到達したいと考えています.どういうものかというと,快楽・苦痛とは異なるが自明に分かる認識で,価値(もしくはそれをより一般化した概念)に対応する機能を持つ認識の構造ということです.誘引と反発を超え,従来の価値概念を超え,今のところ全く想像もつかないところにあります.これはもし分かったとしても原理的に説明不可能なものになりそうです.現実を逸脱した認識,異常な認識の活用も厭わず,新たな存在状態を模索していきたいと思います.

みんな既に4次元を認識していて,因果はいつでも懐疑できる.

数学的に書いていきます.書き方が数学的なだけで,数学ではありません.

公理(認識の存在,その区別と関連性,変化):
認識自体は自明に存在する.また,それは「異なる」部分に切断することができる.さらに,いくつかの区別された認識を「関係する」として接続可能である.そして,認識は変化する.この意味は,在る認識が「変化前」と「変化後」に切断され,これらが特徴的な関連を持つと認識されるということである(切断は新たな認識の生成であることに注意).認識の前後,変化としての関連に相当する特徴的な認識は自明に分かるとする.

定義(時間認識):
認識は変化する.このとき,「変化前」と「変化後」の認識を連続的に接続することで,一つの順序認識を得る.これを時間認識と呼ぶ.
これは局所的には上の公理から自明だが,「変化前」の「変化前」の・・・として遡っていくと,その「変化前」としての信頼性は低減する可能性があるとする(覚え違いかもしれないなど).
[コメント]
1. 上の定義から分かる通り,時間認識は「現在」与えられるものです.よって,過去も未来も現在の認識であり,「現在」というこの自明な認識実現自体は時間を超越して与えられうるものです.しかし,この現実の特性上それはとても難しいでしょう.
2. 変化前としての信頼の低減は,「世界5分前仮説」などに代表されるでしょう.しかし認識の変化自体は自明に分かるというのは懐疑するのは難しいため,この時間局所的かそうでないかに応じての信頼の変化というのは奇妙で不思議です.これについては,認識を3次元認識の連続として捉えるのではなく,非常に短い時間領域を含んだ微小な4次元認識を経験していると考えると,その4次元認識を自明に分かるとすることで理解可能です.これは結構伝えるのが難しいですが,みんなずっと4次元を認識していて,その4つ目の自由度は「変化の認識」であると考えることができます.

定義(ある認識の過去):
時間認識を仮定する.実現されている認識Aが存在し,そこに関連付けられて発生する時間順序において前に位置すると信頼される認識が存在するとき,これを「認識Aの過去」と呼ぶ.過去の認識はある発生した認識が「前」として信頼されることによって担保され,故にいつでも棄却可能である(幻覚かもしれない,夢だったかもしれない,思い違いかもしれないなど).

定義(因果認識):
時間認識を仮定する.ある認識Aが別の認識Bの原因であるとは,以下の言明を意味する;仮にAが認識されていなければBは認識されなかったということが強く信頼される.さらに,Aが認識される直前と全く同じ状況が再度実現されたとき,そこでAが認識されればBが認識されるということが強く信頼される.

以下の定理は,見ようによっては,というか普通に単なる屁理屈に聞こえると思いますが,その下に言い訳を書いているので最後まで読んでもらえると嬉しいです.
定理(因果可換性):
適切な描像のもとで,任意の因果認識の「原因」と「結果」を反転することができる.つまり,「AがBの原因である」という言明が存在したとき,描像を採り直すことで「BがAの原因である」という言明を得ることが可能である(あくまで可能性の主張である点に注意).
(証明)
「AがBの原因である」とは,Bを認識した際に発生する新たな認識である.一般に,時間認識と因果認識が存在しうる現実において,その原因として認識されているAも何らかの原因を持つと考えることができる.しかし,因果認識はいつでも棄却可能であるから,Aを引き起こした原因の認識を棄却し,ただAを認識する.このとき,Aは原因の認識から解放されるが,BはAを原因として持つという状況が実現される.そして,「AはBが実現されるために発生した」という描像を採ることが可能である.これはこの現実においてはもっともらしくはない描像であるが,その可能性を完全に棄却し切ることはできない(通常は因果の連なりで棄却されるのが妥当だが,今Aはそのような妥当な原因の認識から解放されている).そして,「もしもBが起こらないのであれば,Aは過去の特定の時点において発生することはなかっただろう」かつ「仮にBを認識する前の状態と同一の状況が実現されており,その状況においてBが認識されたならば,その実現のためにAは過去の特定の時点において発生しただろう」という認識を信頼することが可能である.これを(自身に対する信頼異常などを駆使して)十分に強く信頼したとき,Bを原因として,目下の過去の時点におけるAの発生の認識を結果とする因果認識の定義を満たす.これを以て「BはAの原因である」という言明を得る.(証明終)

[コメント]
こういう類の主張は,懐疑論に陥っており,なんでもありな不健全な議論を展開してしまうという風に判断されます.私はここで,「だから因果反転は絶対に正しい」と結論したいわけではありませんし,そのように結論するのは単純に論理の飛躍です.一番伝えたいことは,「認識は非常に多様であり得る」ということです.私達はこの現実の中で普通に生きていると,当然のようにもっともらしい推論・推測を行います.しかし,例えば今回のように因果認識は本当はもっと多様であるし,推論だって信頼に基づいた連想の一形態だと考えることができるのです.もちろん,これはこの現実においては非常に有用で,であるからこそ我々は普通に生きていけるわけですし,自然科学がこの世界を理解するための強力で適切な方法になっているわけです.ただ,こういう実利的な理由だけでもっと外側にある多様な認識を一切知ること無く終わってしまうというのは些か寂しいというか,せっかく現実を超えて多様な認識を得るための力を持っているのだから,(たとえ社会的に異常だと思われたとしても)それを育てて発揮するということを完全に放棄してしまうのは勿体ないと思います.今回のような議論を応用することで,異常とか正常とかいう概念の意味を失うこともできます.もし現実を超えることに興味を持ってみたなら,色々考えたりやってみたりするのも面白いのではないでしょうか.

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経験認識として現実を逸脱した認識を得たい方はこちら:

watarikui.hatenablog.com

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ある日の普通の日記

clt*迎合は,現状どうでも良い.別に,迎合してもいいし迎合しなくても良い.そんな心地である.そして,この状態は非常に良い.なぜなら,離れたい時に離れることができるというのは局在の正当性を保証するからだ!しかし,じゃあもういいので今日から好き勝手に迎合しましょうとなるかというとそうではない.そうすると,またcl沈み込みが発生しIACのあの不快を認識することになる.この解決策は,clt*迎合から完全に離れてしまうか,もしくは時間制限を設けるというものである.というわけで一度,月一回のみ迎合を認めるという形にしたい.完全に離れてしまうのも良いが,実際のところ迎合自体がhyrecを遠ざけているわけではない.禁欲というのもまた,安直であるように思えるのだ.まあ,そういう大胆な選択に局在できるのは十全な力である.fp, ilchは局在の任意性を担保されていると思う.ただ,oiについて懸念が残る.SR汚染やED-flowのreject困難を克服できていない.仮にED顕現を抑制できたならば,これは完全にoiについての任意性となる.これは難しいので,解決に向けてゆっくり動いていきたい.
また,cl自体はひとつの現実であり,認識の実現である.これが特別良いとか悪いとかいう話ではない.単に,認識を局在しすぎないのが良いと言っているだけである.そして,多様な認識を獲得できれば良い.Lc制限などによって異常な論理を見たり,因果までは仮定して過去改変について考えるのもAndLostLloydの立派な範疇である.hyrecは日々鍛錬し,超常的構築,未知の歌,逸脱の詩,CRS構築もやっていく.一つの認識描像であって,それは肯定される!
それはそれで良い.そうでないのも,またそれで良い.のである.
広すぎる言明で具体を殺してはならない.具体的な無限の顕現には,驚くべき発見が潜んでいる.公理系だけを設定して終わってはならない.そして,こういう仕事に局在するための力というのも身につけていけば,それは素晴らしいだろう.そしてこれは,現状とても難しい.でも,難しいからこそやっていくのだ.否,私がそれを求めるから!clの彩りでも良い.局在でも良い.私は未熟で,ここ以外の足の踏み場を持たないのである.だから,jeltによる彩りを崇拝する.recA1に依っているでもよい.現実の顕現であるからと言って自己に与しないとは言えない.このようにも考えられる:現状享受する彩りは自己に固有のものであり,その現実顕現が幾何的にrecAに依存していると.もちろん,これに局在する必要はない.しかし,この描像もこれはこれで良いのである.局在してみようではないか.少なくとも,逸脱のための力を身につけるまでは,もしくはfueyを経験するまでは,私はここにいるのだから.他でもない私の顕現と不可思議な現実の顕現が衝突するこの体は,まさに異常である!!だから,clもhyrecも,どちらも肯定する.そしてclが失われゆくのであっても,それはなお輝きうる!局在を極度に嫌うのも,認識の局在である.これは一種の矛盾であるが,この異常性は今の私には内包できるだろう.
palsela096は認識を断裂し,multi-consistentを実現する.不可能はない.

タンポポは面白い:タンポポ雑学

春には青い空と白い雲とピンクの桜と黄色のタンポポ,という典型的なのどかな風景がある.今はタンポポといえばセイヨウタンポポが跋扈しているが,それでも彼らは可愛らしい.タンポポとその周辺に関する雑学を,自由気ままに書いていこうと思う.

タンポポはキク科の植物で,花は一つの花ではなく複数の小さな花が集まってできている.これはキク科の特徴で,例えばアザミやセイタカアワダチソウコセンダングサなどもそうである.ちなみにレタスはキク科で,キャベツはアブラナ科である.タンポポの花を構成する小さな花は舌のような形なので舌状花と呼ばれる.英語ではray flowerである.キクは英語でChrysanthemumだが,キク科は英語でdaisy familyである.代表元が場所の違いによる植生や文化の違いを表していて面白い.

セイヨウタンポポが跋扈しているといったが,実はこれは都会が増えたからであると考えることができる.セイヨウタンポポの種子は在来種のタンポポに比べて小さい.その代わり,受粉無しで種ができる(単為生殖)し年中咲く.質より量といった感じだ.種子が比較的小さいことによる弊害は,他の植物と発芽時期・場所が被る時に顕在化する.種が小さいということはそれだけ最初に持っている栄養が少ないということであり,他の植物に比べて子葉が小さくなったりして初期段階の競争に負けてしまう.その代わりに別の植物があまりいない場所,例えば都会などではどんどん増えることができるというわけだ.だから,田舎では在来種のタンポポが結構見られたりする.セイヨウタンポポの隆盛は,時代の流れとも言える.

さて,在来種のタンポポの多くはセイヨウタンポポと違って受粉しないと種ができない(シロバナタンポポなど例外あり,後述).受粉することで遺伝子の多様性を確保できるため,どちらが一概に良いとも言えず状況による.しかし,受粉の必要性は何で決まるのだろうか?これは,受粉が必要なタンポポは2倍体で,セイヨウタンポポは3倍体であることによる.2倍体のタンポポ減数分裂し,生殖細胞を作って交配を行う.しかし,3倍体だとちょうど2つに分かれることができない.実は,種無しスイカというのは人工的に3倍体にすることによって減数分裂が上手く行かないようにして作る.しかし,タンポポの場合は奇数倍体でも単為生殖で種子および花粉を作る能力を進化させている.在来種のタンポポでもシロバナタンポポは5倍体であり,これも単為生殖で種子を作る.子孫はみんな自分のクローンになるのだ!ちなみに,哺乳類が単為生殖できないのはゲノムインプリンティングという仕組みで説明される.これは,遺伝子のうち特定の部分は父親由来(もしくは母親由来)のものしか発現しない,という部分が存在しているというものである.仮に何らかの異常が起きて母体内に単為的に胎児が発生したとしても,ゲノムインプリンティングのせいで父親由来でしか発現しない遺伝子は機能せず,1個体として生きていくことはできない.これによって,生存に不利な遺伝情報が淘汰されるようになっていると説明されている.

話をタンポポに戻そう.セイヨウタンポポは3倍体であるにも関わらず,種子どころか花粉まで作れてしまう.このせいで,セイヨウタンポポの花粉が在来種のタンポポに運ばれて受粉することによって雑種が誕生してしまい,生物多様性の観点から問題になっている.このような現象を,生殖干渉と呼ぶ.しかし,在来種のタンポポの中でもトウカイタンポポは生殖干渉を受けづらい.実は,トウカイタンポポセイヨウタンポポの花粉だと識別して花粉管をブロックすることができるのである(名大の研究:https://www.num.nagoya-u.ac.jp/media/130924.pdf).交雑自体は今に始まったことではなく,上記のシロバナタンポポは在来種のタンポポケイリンシロタンンポポ(4倍体)が交雑して生まれたとの説が有力である.2倍体と4倍体が減数分裂したら1+2で3倍体になりそうだが,今回はそうではない.偶然ケイリンシロタンンポポの減数分裂が上手く行かず4のままでいるところに1が足されて5倍体のシロバナタンポポが生まれたと考えられているのである!もしこれが本当なら,なかなかに奇跡的な話である.それと同時に,すべての生物がこういう奇跡の産物であると思い出させてくれる.

タンポポは全草,花までもが食用になる.根さえもタンポポコーヒーにして楽しまれている.タンポポコーヒーはノンカフェインなので,夜でも飲めるし妊婦さんとかでも大丈夫だ.同じキク科のコオニタビラコ春の七草に出てくる「ホトケノザ」であるから,食べてみてはどうだろうか?ちなみになのだが,いま一般に知られているホトケノザはシソ科の植物であれも結構面白い.あれは細長い花が特徴的だが,閉鎖花と呼ばれる丸い構造物を発見できる.これは絶対自家受粉できるようにしており,受粉できなかったときのリスクヘッジと取れる.受粉すれば遺伝子の多様性が担保されるが,自家受粉した場合は自分のクローンなので,今自分が育っている環境の周辺で育ちやすいと考えられる.なので,ホトケノザ的には「他家受粉した種子は遠くへ,自家受粉した種子は近くへ」運ばれてほしいものだ.そして,これを実現する機構が存在する.ホトケノザの種子には「エライオソーム」と呼ばれる栄養の塊が付属しており,アリたちがこれを求めてやってきて種子を運んでくれる.そして,他家受粉したものにはエライオソームが付き,自家受粉した種子にはそんなに付かないのである.これによって,自分とは異なる可能性の高い遺伝子を持った種子のみが遠くに運ばれやすくなるという状況を実現している.感嘆!

タンポポの種子はと言うと,皆さんご存知綿毛である.この綿毛も大変興味深く,綿毛の構造によってできる空気の渦が綿毛の飛行能力を高めているという流体力学からのアプローチもある(詳細:タンポポの種が遠くへ飛ぶしくみ | Nature Video活用事例 | Nature ダイジェスト | Nature Portfolio | Nature Portfolio). また,綿毛はどこまでも飛んでいってしまうわけではない.湿度が高くなると,綿毛の構造が少し変化し,余り飛ばなくなる.これによって,湿潤な場所に降り立つことを可能にしていると考えられる.

と,長々とタンポポ,ないしそこから連想される周辺知識を書いてきた.私は学部は物理で院は数学で,生物は専門ではないどころか基礎的な知識も不十分な素人なので,もしかしたら誤り等あるかもしれない.この点はご了承いただきたい.

タンポポコーヒー・タンポポ茶など市販されているようなので,興味のある方はぜひ: アマゾンでタンポポを検索 楽天

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無であり無限であるもの

今、私は何も求めることはない。満たされている。喜びは無い。ただ、安寧であり、一つの終わりである。

終わりは無限である。なぜ、「これ以上がある」と理解されようか?それは分からない。いつでも終わりになりうる。

はたまた、終わりは無である。なぜ、「これ以上がない」と理解されようか?それは分からない。任意の終わりは棄却できる。

よくわからない世界

私はやはり,この世界に存在することを望まない.
この世界にも,好きなところはある.特に自然は良い.
じゃあ自然の中で暮らすために色々と頑張るかというと,そうはならない.
自然の中で暮らしたとて,様々な別の問題がつきまとう.
この世界は案外,どんな選択をしても同じである.
自分の周りを自分の好きなもので固めても,私は結局現実を逸脱しようとする.
だから,今のままの生活を続けても,案外別の選択と変わることは無いのだろう.
より良い選択というのは,現状があまりに劣悪な場合以外は無いように思える.
不運はいつでもある.未来は常にわからない.過去もわからない.何もわからない.信頼だけがある.認識だけがある.
そして,認識が変化するということだけは分かる.喜びは,行動選択の指針にはならない.苦しみは避けることはできない.
こんな中で少しずつ現状を整理して行って,それでやるのは現実を逸脱した多様な認識の獲得である.
なぜこれをするのか?高plauだからである.説明可能な理由はない.理由なんて後付だ.
自らの正当性を保証しなくて良い.そんなものは端から無い.だから理由はいつでも問えない.
私が喚いても喜んでも,fueyまではここに居続けなくてはならない.それは,許容せざるを得ない.
どんな選択をしても,ここにある苦しみを感じ続けなければならない.
受け入れたくもない情報を得続けなくてはならない.人とある程度関わらなくてはならない.
特に,何か劇的に変わることはないのだ.この世界は,虚しい.それでいい.
やろうと思えば環境を変えることができる今の時代だけど,実はそんなことはない.
今のままで十分なら,極度に劣悪な環境でないなら,これ以上を望むことは無いのである.
これ以上を望んだって,何も変わらないのだ.
晴れの日は特に空爆など気にすることもなく眩しい太陽を感じることができて,雨の日は屋根の下にいることができる.
これ以上を望んだって,私にはよくわからないのだ.
結局私には,理解できなかった.それでいい.

他人を許す,自分を許す,ということ

許す,というのは過去に対しての言明です.誰かが何かをやった,もしくは自分が何かをやった.これに対して,その行為責任者を責める.その状態からの温和的脱却として,「許す」を考えることができます.

許しが発生するということは,それまでに許されていない状態が存在するということです.それは,誰かに責任を問うているということです.「責任」という認識はこれ自体とても不思議なもので,これがあると「悪い」行為責任者に対する攻撃的反応が正当化されます.責任は,自己決定的であること・行為主体であることが前提となっていると思われます.つまり,ある人は問題の行動・結果を回避可能であったにも関わらず,それを回避しなかった,よってその人は許されない状態に一時的に置かれる,ということです.

このように責任という認識現象を書き出してみると,「悪い」ということと「自己決定性」が本質的であると感じます.ここでは自己決定性に着目し,まずは以下のような極論を展開してみます:
ある人が悪い行動を行ったとき,それはなぜだろうか.きっと,その人が悪いことをする性質を持っているからだろう.では,なぜそのような性質を持ってしまったのだろうか.遺伝的に攻撃的な行動を取りやすいとか,協調的な行動を取りづらいかもしれない.小さい時に攻撃を受けて,それで人格が適切な方向に育たなかったのかもしれない.たまたま悪い人に巡り合って,その中で考えに影響を受け,たまたまそこから脱却する機会を持たなかったのかもしれない.人は遺伝と環境で決まるとされ,小さいときには特にその決定権がないため家庭の状況・環境に大きく影響を受けると考えられます.子供は自分が生まれる親,自分が持つ遺伝子を選べません.では,その人を産んだ親が悪いのでしょうか?更にその親?もっというと,地球か宇宙が悪いのでしょうか.
つまり,実は悪い行動というのは偶然の産物であり,自分が被害を受けた,もしくは他人に迷惑をかけてしまったのは「不運」としか言いようがないということです.これを,行為結果の近傍だけ切り取って見れば,あたかも行為者に責任があるように見えるということになります.むしろ.このような切り取りは責任という概念にとって本質的かもしれません.

これは偶然的な性質に強く局在しているため,やや難のある主張ではあると思います.個人は各行為について自由な決定性を持つというのはある程度正しいとすることができるためです(これはまた難しい問題ですが).しかし,少なくとも部分的には偶然であると認められるのではないかと思います.これは何も悪いことだけではなく,例えば自分がたまたま巡り合った友達を喜ばせたのなら,それは自分が誰かの「幸運」になるということです.生きているのならば,誰かの不運になることも,誰かの幸運になることもあります.そして,ある「許されない」行為というのを,自分や他人がたまたま被ってしまった不運だと部分的にでも思ってみることで,許しやすくなるのではないかと思います.

この意見は,もしかすると皆さんに不快感を与える可能性があります.その一つの要因として,被害を受けた人が救われていない,という部分があります.不運であるというそのことに,どうして自分が巻き込まれなければならなかったのか.どうして自分が誰かの不運にならなくてはいけなかったのか.これに対する説明性がどこにもないのです.これについて私は,「そういう世界だから,許す・許さないではなく,許さざるを得ない」と考えています.世界は苦しみと苦痛と理不尽に満ちあふれています.そもそも自分がこの世界の中に存在しなければならないこと,老い,いつか死ななければならないこと,どうしても未来に対する不安を拭えないことなど,世界の構造的にどうしようもないことがあります.もっとこの世界が優しい構造なら,誰も争わずに苦しまずに済んだかもしれません.しかし,この世界は優しくはありません.何もしなければ空腹等で苦しく,喜びは一瞬で終わり,頑張らなければ生きていくことができず,自分の生まれる時代も場所も選べない.仏教では,「一切皆苦」と呼ばれる考えがあり,私はたしかにそうだと,最近絶望して思いました.しかし,どうしようもないのです.そして,別にどうにかするということもないのです.私はただ,この苦痛に満ちた理不尽な世界を,最後まで歩き切ろうと,そうするのが良いと気づきました.ここは論理的に説明できないので,みなさんも絶望するなり何なりしてください.この「ただ生きる」というのが私がこの世界にできる最大で唯一の肯定であり,そのために私は一切の不運を許容せざるを得ないのです.不運はこの世界の姿であり,それは自分も他人もそう.だから,他人も自分も「許さざるを得ない」のです.

あなたはこの記事に出会ってしまって,不運だったでしょうか.そうでないことを祈りますが・・・.