一つの認識描像

武装した論理で自らを破壊する

自分がなにか考えを持つとき,それの論理的な根拠を模索することが一般的だと思う.しかし,よくよく考えてみると,最終的な根本の部分はどこか非論理である.例えば,「〇〇するのが良い」とか,「〇〇には価値がある」とかである.
私が考えに対して論理的な固めを行うのは,防衛のためであるという点が大きい.もちろん,数学の理解などは例外である.これは個人的な考えではなく,論理的な構造であるからそうせざるを得ない.まあ,とにかく個人的な考えを持つときに攻撃,つまり他者からの批判に対して堅牢であるためにはどうすればよいか.ここで活躍するのが論理的・客観的な議論である.論理というのは,自分が持つ認識を他者に複製するという点で非常に優れている.同じ仮定を設定し,同じ過程をたどれば,誰でも同じ結論にたどり着く.客観的な事実というのも,個人的な特性によらないものだ.だから,もし自分が批判されたとしても,自分が論理的・客観的に構成した考えであれば,相手にその認識を高い精度で複製できる.すると,相手はどこかでその批判が誤りであると気づくだろう.

しかし,論理と客観には自分はいない.正しいことが良いことは多々ある.しかし,いつでもそうとは限らない.それに,価値の認識というのはどこか非論理を含むはずなので,結局社会的な了解に依存せざるを得ない.認識が自分の外側に向きすぎて,自分を守ろうとするあまり自分を消して世界の中に溶かし込んでしまうというのは,私は悲しいと思うのだ.そして,その悲しい性質を私は内包している.ちなみに,悲しいと思う論理的根拠はない.
本当は,ここに書きたいことはたくさんある.しかし,書いたとて誰にも伝わる気はしない.自分自身に対してさえもよく説明されていない!しかしこれは,自分が持つ説明性への執着のように思う.非論理的な考えの重要性に気がついたのは割りと最近のことだ.私のなんと愚かなことか.そもそも本当に正しいことは,「認識は存在する」くらいなのだ.あとはほとんどわからない.私の存在だって,分からない.今のところは「音響の弱雨」だと思っているが,これは説明できない.本質的な部分は,どうにもいいようはないが,「心」で捉えるしかない.

現実を逸脱した認識を追い求めている私にとって,このようなたった一つの現実の部分現実の説明性に縛られているのは心底馬鹿馬鹿しいのだが,頭でわかっていても実際に改善するのはいつでも難しい.遠く,繰り返す.