一つの認識描像

自分とは、好き嫌いするものである

自己とは何か。自己とは、認識の曖昧な全体である。特に、認識に対する誘引と反発の認識が自己を特徴づける。

まずは、概念空間という言葉を定義します。これは、もちろん頭の中にある概念が全部集まったものと考えられますが、ここで言う「概念」は、視覚的情報などの「意味を見出される前の情報」も含むと考えてください。例えば、あなたはいま「この」視覚的情報を認識しています。そこに、何らかの認識作用で意味を見出して、書いてあることを理解しています。では、意味とは何でしょうか。

意味とは、概念空間上の相関の認識が成す曖昧で可変な構造です。例えば、あなたに「りんご」という視覚的情報を与えます。すると、例えば発音したときの聴覚的情報、果物という概念、赤という他の視覚的情報、特徴的な味覚・嗅覚の情報、中にはエチレンなどといった、様々な他の概念との相関を見出すことで、この特徴的な視覚的情報の「意味が分かる」と思います。意味とは、同時多発的な概念の認識であり、その相関は例えば「分類」だったり「色」だったり、その他の概念でラベルされた線で結ばれています。そして、もちろんそれらに関しても意味の認識が行われます。たった一単語「りんご」を認識しただけで、それらに関する概念との相関の構造がすべて認識されているというわけでは確かにありませんが、もし関係を見出されるある概念に認識を局在化すればそれに関する概念空間上の(複雑に絡み合った)構造が強く認識されるようになります。これは、例えば推論を考えると分かります。例えば、「15は奇数である」といったとします。これは、正しいです。このとき、「15」という視覚的情報に関してはそれが奇数であるといった以上の事を認識することは可能ですが、あえてその点に認識を局在化させていることが分かります。推論は認識の局在を必要とします。

さて、ある情報に対して見出される意味は人それぞれ異なります。これは、自己を特徴づけるものではないでしょうか?つまり、自己を概念空間上の認識の相関構造と考えることが出来ます。そして、「意味」というのは論理的なものだけではなく、感情的なものも含まれます。例えば、「数学」に対して「恐怖」が認識されるか「興味」が認識されるか、これは人それぞれです。これはすなわち、ある情報を認識したときに、例えばわくわくするような「あの感覚」を誘引するという、認識の誘引構造まで考えればよいと分かります。誘引された情動を認識するには、もちろん認識主体が必要です。よって、認識主体、概念空間とその上の構造、誘因構造という3つのセットで自己というものを表すことが出来そうです。

どのような概念空間を持ち、構造を見出すのか、どのような誘引が行われるのか、これが人それぞれ異なる部分だと思います。特に、何が好きで何が嫌いか、この誘引構造は認識主体を特徴づける重要な要素だと考えられます。なぜなら、概念空間上に見出される構造には多くの種類がありますが、「どの構造を見出すのか」というのは好き好みの問題だからです。「波動」に「物理・数学」を見出すのを良しとし「スピリチュアル」を見出すのを嫌う場合もありますし、その逆も存在します。何を好きになるかというのはある程度自分で変更することが出来ますので、自己決定的な要素でもあり、自分とは何かに対する一つの答えになりうると思います。

よって、「自分らしくある」とは、「自らが肯定するものを肯定している状況を肯定する」と考えることもできます。自己構造に対する認識は完全に個人の認識に依るものなので、ここでの考えはあくまで一つの例に過ぎないと捉えてください。