一つの認識描像

自分は関係の中にしか存在しない

何かが存在するとはどういうことなのか、これについて考えることはそれほど珍しいことではありません。特に自分とは何かを深く考えようとすると、この存在そのものに対する疑問は自然と出てきます。今回は、これについて私なりに考えてみたいと思います。

1. 「存在する」とは何を指す言葉か

まずは、存在という言葉について考えてみましょう。もっとフランクに、「何かがある」と日常の中で言うときにどのような状況を指しているのかを考えてみます。例えば、私のそばにはコーヒーが置いてあります。これは、幻覚ではありません。なぜかというと、見ることができるし、触ることができるし、飲むことができるからです。もちろん、懐疑論の立場に立てば幻覚の可能性を完全に否定することはできませんが、ここでは懐疑論の論駁にまでは立ち入りません。何が言いたいのかというと、何かが存在するとはそれに触れることができる、つまり、それと相互作用することができるということです。物理的に説明すると、「見る」、「触る」、「飲む」はすべて電磁気相互作用です。それでは逆に、相互作用できないものを考えてみましょう。目の前に、粒子があると考えてください。この粒子は特殊で、質量を持たず、電荷をもたず、強い相互作用弱い相互作用もしません。これらの性質のため、重力による検出もできませんし、見ることも触ることもできません。なんの作用も生み出さないので、あってもなくても完全に同じ状態です。さて、あなたはこの粒子を「存在する」と言いますか?おそらく、このような状況を考えたときに「この粒子は存在する」とは言わないのではないでしょうか。つまり、存在を規定するものは相互作用であると考えることができます。

2. 自分が存在するということ

それでは、自分の存在を規定する相互作用は果たして何なのでしょうか。これは少し漠然とした答えになってしまいますが、「認識すること」だと思います。例えば、AさんとBさんがいます。AさんはAさん(すなわち、自身)を認識しますし、Bさんも認識します。Bさんについても同様です。このとき、Aさんは「Aさんの認識」と「Bさんの認識」の中に存在します。もちろん、両者は一致するとは限りませんが、多くの点で類似していると考えられます。まず、Aさんの存在が「AさんからAさんへの認識」で規定されるところはある程度納得できると思います。もしこの認識なければ(意識を失えば)、自分は自分が存在していることを確認することができません。しかしこれだけだと、意識を失ったときに自分が消える(物質として相互作用しているので「Aさんの体」だけが存在する)という状態になります。次に意識が戻ったときには自身を認識するので元通りになりますが、それまでの間にもAさんが人間として存在し続けるためには、ほかの人による認識が必要になります。もっとも顕著な例として、Aさんが記憶喪失した場合を考えてみましょう。Aさんは今までのAさんに対する認識の蓄積を失い、記憶喪失以前のAさんが存在しているとは言えない状態になります。この状態をA’さんと呼びます。A’さんは記憶喪失時点で自分がAさんであるということを認識できません。もしこの世界にA'さん一人しかいないのであれば、Aさんは存在しなくなり、A≠A'となります。しかし、例えばBさんがAさんに関する連続した認識を持っていれば、A’さんがAさんであるということがわかります。よって、A=A'さんとなり、Aさんは以前存在することとなります。

少々ややこしい話をしてしまいましたが、この認識というのを関係という風に言い換えれば、「自分は関係の中に存在する」と標語的に言うことができます。別に、他の人との関係を大事にしようと言っているわけではありません。自分も他人とかかわるのはそんなに好きではありませんし。ただ、私の考えとして、自分というものは実在的ではなく、関係というより現象的なものであるということを伝えたかっただけです。どこかに確固としてあるものではなく、相互作用であり、観念的なものであると思っています。面白い考え方だと思っていただければ幸いです。