一つの認識描像

たった3つの「正しい」こと

今まで20年以上生きてきて,正しいことは3つほどあると気づきました.今のところの考えなので,今後修正される可能性はあります.

1. 認識は存在する

認識自体はあります.今見ているものが幻覚であっても,その幻覚という認識自体の存在を否定することはいつでもできません.
認識というと,対象と認識主体があって,主体が対象を認識するという描像をとりがちだと思います.しかし,これはあくまで描像であって,本当に存在すると言えるのは認識でしかありません.認識主体も「主体」という認識ですからね.私は,なにか考えるときにはこの存在が自明了解できる認識に立ち返って,認識によって思考に必要な概念を定義・構成しています.

2. 認識は流動する

認識は少なからずどこかしら変化します.なぜなら,認識が変化しないとは「認識が変化していない」という認識を得ているということであり,認識の獲得は認識の変化にほかならないからです.例えば時間が止まっているというのは「今時間が止まってるなー」という認識で,これは内的な変化の存在にかかわらず他の部分は動いていないという風に言い換えることができます.自然科学的な描像を取れば,全世界の時間が止まっても自分の脳も止まるから時間が止まっているというのは分からないということです.そして,正しいのはその存在を自明了解できる認識なので,認識が完全に変化しない状況を認識できないのならば,認識はどこかしら変化すると言わざるを得ません.この点に関しては,もう少し考えれば棄却できるくらいの認識自由度を獲得できるかもしれないと考えています.

3. 快と不快への誘引と反発

何に喜びを感じ,何に不快感を感じるかは人それぞれですが,その最終的に感じる快・不快の,あの特徴的な認識が「快・不快である」というのは自明に分かってしまいます.ある認識に対して不快感を感じれば反発するように認識は動く傾向にありますし,逆も然りです.この認識は単なる情報的な認識に対して意義をもたらすもので,これを拡張したものを「彩り」と呼んでいます.

そして,今のところ私にとってはこれ以外は何も分からないので,全て「どのような描像のもとで成り立つ言明なのか」ということを認識するよう努めています.また,様々な概念を認識の言葉で再構築していくと,自分が無意識に(謎に?)信頼してきた考えなどに気づくことができて面白いです.例えば,認識主体や改変主体は描像ですし,現実において認識応答の規則性が認識状態のある種の変化(言えば,時間変化)に対して堅牢性を持つということも描像です(ここに出てきた言葉も認識で構成され,描像を明確にするのが良い).適切な描像は認識の理解(つまり,状況としての認識の生成)を助け,有利に生きることができますが・・・,こんな認識を構成できるのはなぜかも分からないですし,世界って不思議ですよね~.

あー何にも分かんねぇなー.新しく認識構造でも創るか.