一つの認識描像

感情と論理

人は高度に論理的な思考が可能な生き物で、それによって将来を予想し適切な行動を選択する事ができます。しかし、自分の利益になる行動を必ず取れるわけではありません。例えば、判断を誤ってしまったり、勘違いなどによる情報のズレによってミスをおかす可能性もあります。しかし、自分の感情が判断の邪魔をすることによる行動選択のミスが一番大きいでしょう。感情というのは厄介なもので、衝動的で論理的でない行動をしばしば誘発します。その一方で、感情がなければ我々の人生は色味にかけるものになるでしょうし、対人関係に問題を抱えることとなるでしょう。一概に感情が悪とは言えないのは当然のことです。そこで、感情をコントロールしようと試みることは有意義な時間を過ごす上で非常に重要なものになってきます。簡単な例で言えば、眠たい気持ちを堪えて朝早く起床するなどです。どのようにすれば、感情(どちらかというと衝動かも知れません)をある程度制御できるようになるのでしょうか。これについて考えてみると、ある程度感情は論理的に制御できることがわかります。よく感情を制御する上で正攻法と思われる手段は、意志の力でこらえる、または、発散するだと思います。しかし、これらが効かない場合もあります。私は、その原因はメンタルの状態にあると考えています。感情もメンタルの領域ですが、その土台となる「気分」が落ち込んでいると、すなわち、慢性的なストレスを感じていると、それを解消しようとして衝動的な行動をしてしまうのではないかと思うのです。そして、慢性的であるというのは厄介な性質です。なぜなら、一時的に解消した気分の落ち込みが、一定時間立つと元の落ち込んだ状態に戻り、また衝動的な行動を起こしやすくなるからです。さらに、衝動的な行動を起こしたことによる罪悪感も相まって、負のスパイラルに陥る可能性にあります。他の要因としては、体の状態も考えられます。体の状態と心の状態は非常に密接な関係があるというのは有名な話です。もちろん、このどちらも解決する方法があり、それは運動です。この話は詳しくやりません。それよりも、もう少し感情の構造を考えてみたいのです。例えば、「Aによって、Bが起こる」というのは因果という論理構造を持ちます。数学や物理など自然科学の世界では、客観的な事象と論理的な考察により、だれが検証しても同じ結果になるという、非常に精巧な論理体系が構築されています。対して、感情面においてはそのような精巧な論理は通用しません。というよりは、感情というものが複雑すぎるのが原因でしょう。感情は様々なものから影響を受けます、個人の状態、個人を取り巻く環境、過去などです。しかし、ある程度の論理的な議論は可能です。なぜなら、嬉しいと感じた人が、その他の要因が一切変化していないにもかかわらず急に怒りの感情を抱くのは「おかしい」と思えるからです。おかしい、というのは、妥当な結果の存在を意味し、この意味で論理という言葉を使って、感情に論理的な議論を適応することができます。これらを考慮した上で、今自分が問題にしている感情を分析し、何によって誘起されるのか、どのようにして抑えられるのか、類似する感情とその対処法から有益な手段が得られないか、現在の自分の状況とどのように関係しどう改善できるのか、などを思考することによって建設的な議論を行うことができるでしょう。