一つの認識描像

負の存在を信頼の認識から定義してみる

存在といえば、存在する・存在しないの二択で、中間的な概念や負の存在というのを考えられないような気がします。しかし、あるものが存在するという言明に対する信頼の認識の働きを見ると、存在という概念をもっと連続的にできる可能性があり、さらに負の存在認識というものを考えることもできるようになります。

目の前になにかがある時、それは存在していると認識されます。しかし、皆さん御存知の通りこれは疑うことが出来ます。例えば、今自分は夢の中にいるのかもしれないとか、幻覚かもしれないとかです。すると、その物体の存在に対する信頼が揺らぎます。私は、「存在する」と言っているからには、その認識を支える信頼が何らかの形であると考えています。信頼を逸脱して完全に存在すると言えるものはわずかで、その例として現在享受する認識が挙げられます。これは、もし今の認識が幻覚であったとしても、その幻覚を認識していることは自明な事実なので、その認識自体を否定することは出来ないからです。逆に、このレベルで自明といえないものは何でも疑うことが出来て、それ故に存在という概念は信頼の認識に依ると考えられます。つまり、信頼の度合いという観点から、存在という認識を連続的に捉えることが可能となります。これが、存在概念の連続化です。

では、負の存在の認識とは一体どのように実現されるのでしょうか。これは、「目の前に実際にあるのに、それがあることが信じられない」という言明を見ると分かりそうです。目の前にあるというのは、普通の感覚では大きな存在の信頼となりえます。しかし、それを打ち消す認識作用が内的に存在しているがために、その存在を信頼できなくなっていると捉えることが出来ます。よって負の存在認識というのは、認識主体の懐疑によって定義できる可能性が考えられます。アンケート風に言えば、「確実に存在が信頼できる・普通に信頼できる・信頼する理由はない・存在しないし懐疑的だ・絶対に存在するはずがない」というグラデーションになっているように考えられます。