一つの認識描像

そらとぶさくらんぼ

 ある村には,こんな言い伝えがありました.
 「16年に一度,森の中に特別な芽が現れる.それは8年で立派な木に生長し,4年で初めて花を咲かせるようになり,2年かけて実をつける.その実はたったの1つであり,しかし2つである.それはさくらんぼの実で,2つで1つである.それぞれの実は片翼ずつ羽を担い,天使のように飛んでゆく.その様子はとても美しいが,決して近づいてはならない.それが飛んでゆくのを見届け終わると,生えていたはずの立派な木は無くなっている.その代わり,2年後またどこかに新しい芽が生まれてくる.」
 このお話は,「そらとぶさくらんぼ」として村中のみんなが知っていました.なにしろ,その木は実際にあったからです.16年に一度,そらとぶさくらんぼが天へ消えてゆく様子を村中のみんなで見届けます.みんなは過ぎ去った年月を振り返り,そして新たな芽を見つけてこれからのことを想います.
 そんなある日,村の外から一人の男の人がやってきました.どうやら,そらとぶさくらんぼのお話に興味を持った科学者のようです.彼は,村の人に話を伺います.
 「そらとぶさくらんぼは,本当にあるんですか?」
 「ええ,ありますよ.今年はちょうど15年目ですので,来年はさくらんぼが飛んでいく様子を見られると思います.」
 「それは興味深いですね.私もご一緒させていただいても良いでしょうか?」
 「はい,もちろんです.あ,でもひとつだけ,注意してください.それを決して捕まえようとしたり,近くで見ようとしないでくださいね.」
 「それは,言い伝えの中にも注意がありましたね.なぜダメなのでしょうか?」
 彼は科学者です.よく調べるためには,よく観察しなくてはなりません.それに,もしそらとぶさくらんぼを捕まえることができれば,どうやって飛んでいるのかを解明できるかもしれません.なので,なぜ近づいてはダメなのか聞く必要がありました.村の人は,難しい顔をしながら言います.
 「それはなぜなのか,わかりません.昔,それを興味本位で捕まえようとした人がいたらしいですが,とても苦しむことになったというのを聞いたことがあります.さくらんぼが空を飛んでいるのは可愛らしいですが,確かに異常なものです.そういったものについて,『決して近づいてはならない』と言われているということは,それなりの理由があるのだと思います.」
 科学者は,なるほど,と思いました.それと同時に,やはりそらとぶさくらんぼについてもっとよく知りたいと思いました.彼は科学者です.こんなに興味深いものがあるのに,自分の身を案じて探求を諦めることはできません.彼は強い決意を抱いた顔をして,こう言いました.
 「村長さんと,話をさせてください.」

後日,彼は村長さんと話をすることになりました.村のはずれにある小屋で待っていると,一人のお年寄りの方がやって来ました.
 「遅れて申し訳ございません.あなたが外部からやってきた科学者さんですよね.話は聞いていますよ.」
 その口調は優しく,科学者は安心しました.
 「はい,本日は貴重なお時間を頂き,ありがとうございます.」
 こうして,二人の会話は始まりました.科学者が言います.
 「私はそらとぶさくらんぼの話を聞いて,とても興味深く思いました.どうしても,その性質を研究したいと思っています.しかし,そのためにはそれに近づいてよく観察するか,あわよくば捕まえて調べるということが必要です.なので,来るべき来年のその日に居合わせて,それに接近したいと考えています.これは,村の文化的に受け入れられるでしょうか.」
 村長は,心配そうな顔でこう答えました.
 「村のものとしては,確かにそらとぶさくらんぼが天に昇ってゆく様子を遠くから眺めていたいものです.しかし,我々も確かにそれについて不思議に思っていて,もしも調べるというのであれば村のみんなも協力してくれると思います.ただ,やはりあの言い伝えがありますので・・・.『あの子』に近づくのは,おすすめはできないですね.」
 「『あの子』というのですか?」
 「ああ,これも不思議なんですよ.若い頃はただの果物であるような認識だったのですが,年をとるに連れて『あの子』という風に思えてきたというか・・・.別の人に聞いても同じような経験をしていると言っていました.上手く言葉にできなくてすみません.」
 いえいえ,と科学者は返事しながら,ますますそらとぶさくらんぼへの興味を強めていました.どうして空を飛ぶのか,近づいたら何が起こるのか,木はなぜ一瞬で消えてしまうのか.時間を追うごとに表現方法が変わるのはなぜか.もはや,彼に迷いはありませんでした.
 「私が危険にさらされる以外に不都合がないのでしたら,ぜひとも調べさせて頂きたいです.」
 村長は,科学者の少年のような目を見て,少し羨ましく思いました.

 そんなことも去年の話.ついに,この日がやってきました.心地の良い柔らかな風が吹き,温かい日差しが微睡みを誘う昼下がり.村中の人は,その特別な木の前に集まります.しかし,少し離れて.
 その中には,科学者もいました.そして,村長から話を聞いている村の人々は道を開け,科学者を見送ります.村の人に隠れてよく見えなかった実が,言い伝えの中の存在だったものが,今にも飛び立ちそうなそらとぶさくらんぼが木の中央に成っています.
 「本当にあったんだ・・・!」
 科学者は,まっすぐに歩き出しました.30歩もあれば,あの実に手が届きそうです.
 科学者は,順調に歩みを進めていました.しかし,半分くらい歩いたところで奇妙な感覚を感じました.それは甘く柔らかい空気で,しかし少し湿っているようで重たく,親が子供に抱くような慈しみの気持ちと,神聖で異常な力を持った者を前にしたときの生命の恐怖を伴った畏敬の念が弱く共存しています.
 ゆっくりと進むに連れ,今度は体を冷ややかで心地よい風が吹き抜けるように感じます.自分の体という殻が開き,風を表面だけでなく立体的に身体の全てで感じています.そらとぶさくらんぼに触れるまで,あと5歩程度です.
 5,4,3,2,・・・1.・・・科学者は,それに触れます.・・・.何かが心から消え去ったというか,むしろ今まで自分を縛り付けていた何かが落ちたように感じます.目の前には黒い大きな空洞があり,その周りを薄い紫のもやが覆っています.それは別に不思議なことではなく,そういえば今までも似たような経験をしてきていました.あれは飛んでいったけど,だからといって飛んでないままの実が無くなるわけではない.これもとっても自然なことだ.ああ,別に変なことは起きなかったな.そらとぶさくらんぼを良く見てみると,あれは近づいたら見えなくなる.

 科学者は村から帰り,自分の部屋にいます.しかし,異常な現象に頭を抱えていました.四角形を近くで見ると三角形になったり,同僚が遠ざかると隅にある机の上の壺になったりします.これは困ったと思って手を額にあてがおうとしたとき,顔に近づけたはずの自分の手がもう片方の手と握手していたときには,流石に恐怖しました.しかし,彼は後悔していません.こんな状況でも彼は科学者です.そらとぶさくらんぼに接近した時に起こる現象を,「スケール依存性を持つ認識異常」として説明しました.そらとぶさくらんぼに近づくと,近くにあるとか遠くにあるとかに対応して,認識がデタラメになってしまうのだと.
 しばらくすると,科学者は今の認識状態に慣れてきて,むしろ今まで正常だと思ってきたものが不思議でたまらなく感じてきました.
 「布を拡大すると,繊維が絡みあう様子を見ることができる.この2つの認識は完全に異なるはずなのに,どうして『同じもの』として扱われるのか?拡大の途中で対象のものが変わるなんて,私はさんざん経験しているぞ!」
 科学者は新しい認識を得て,追求すべき課題を得たようです.それは傍から見れば狂ったように見えるかもしれませんし,彼自身もそう思っているのかもしれません.それでも,彼にとっては本当に実在する問題ですし,それを追い求めない訳には行かないのです.どうしてでしょうね?

 ちなみになのですが,村の人達はその年も変わらずにそらとぶさくらんぼが天に昇ってゆくのを見届けたようです.別に,木の前には誰もいなかったらしいですよ.