一つの認識描像

何もないはずのこの世界に何かを存在させるための論理異常考察

この宇宙はどのようにして生まれたのかについては、現在科学的知見の下に活発な議論がなされています。ただ、何かの「始まり」を議論するのは非常に難しいものです。例えば、「これが万物の根源です」といって誰かが発表しているのを見れば、「それは何によって、もしくはどのようにして構成されるのですか?」と質問することが出来ます。我々は、万物にはその構成要素が存在すると考える傾向があり、これこそ科学を発展させてきた論理的推測そのものなのですが、一番深い部分を考える上では厄介な存在です。今のところ根源的な物質は時空点の励起状態であるとされていて、科学者はこれを素粒子と呼びます。つまり、物質とはエネルギーによって引き起こされた現象ととらえることもできます。では、そのエネルギーとやらはいったい何なのでしょうか。我々はエネルギーを便利な概念として使用してきましたが、それが物質の元であるとすれば何か「実在的な」性質をエネルギーに要求したくなります。それとも、このような直観的な「もっともらしい」推測が的外れなもので、量子の世界では我々の常識がクリティカルなレベルで通用しない可能性もあります。今回は、自分が非常に馬鹿げたことをいっていると理解したうえで、この世界に物質が存在する理由を考えてみたいと思います。我々が当たり前のように信じていて科学的にも問題ないと考えられている前提を無視するので、生暖かい目でエンターテインメントとしてご覧ください。

1. 因果律の破綻がこの世界に物を存在させる

この世界には初めは何も存在しなかったという前提からスタートします。普通に考えてみてください。ここから何時間たっても、何億年たっても、何かが存在するとは思えません。空間さえ存在していないので、量子的揺らぎによる物体の生成も期待できません。ここで、空間とは「何かが存在する可能性がある領域」であると考えます。何かが存在するためには、まずは空間を存在させなければなりません。ここで、IQ3になって空間を出現させてみます。何もなかったところに、空間が現れました。この空間が存在するためには、どうにかしてこの空間ができた原因を加えてあげる必要があります。そして、その原因をその空間自身に求めます。つまり、「空間が原因となって、それと完全に同一な空間が存在している」とするのです。これは一つの論理的誤りである「因果のループ」というものです。今回の場合時間という概念を安易に扱えないので難しいのですが、説明のために空間の中に行ってみましょう。例えば、ボールが空間のある点から突如出現し、ある程度等速直線運動をした後に突如消えたとしましょう。この消えたボールは、最初にボールが出現した時点にタイプワープしたと考えます。すると、出てきたボールに対してそのもともとの製造過程を問うことはもはや不可能です。そのボールは作られたのかもしれませんが、そのような過去は少なくともその世界には存在しません。ボールがその時間間隔の間に存在するのは「ボールがタイムワープしたから」であり、ボールがこの世界に誕生したもっともらしい理由を検証することはできないのです。もっとわかりやすい例としては、「タイムマシンに乗って未来の自分がやった宿題を写す」というものです。その写された回答は自分が写したものであり、どのようにその問題を解いたのかに関する問いは、もはや不可能になります。このようにして、出所のわからない物の出所それ自体を論理的に追及できなくすることによって消滅し、この世界に何かが存在することを許します。これは、少し言葉遊びをするなら「果因」と言えるでしょう。このようにして、存在しなかったはずの宇宙を存在させます。これは、我々にとって理解しえないものだと思われます。我々は論理的な思考ができますが、その論理は自身の経験世界からの帰納で成り立っているため、果から因となるという経験が無い限りこれを理解する論理を構築することは不可能です。その証拠に、私は上の説明で因果のループを引き起こす「トリガー」を想定しなければなりませんでした。

2. そして、何もなくなる

このようにして誕生した空間は、そのあとどうなるでしょうか。もし我々の論理を少しでも適応するとするならば、この空間はいずれ消えるでしょう。どうして消えるのかというと、過去の自分を作り出すために消えるのです。このようにして宇宙は何もない状態に戻ります。上のボールの例に似ています。実は、ボールが出現している局所的な時間間隔にはエネルギー保存則が成立していません。急にボールが現れるのですから、それはそうです。しかし、時期にそれは消え、エネルギー保存則が再度成り立つようになります。任意の有限時間ボールは存在しても良いですが、無限に存在することは因果のループを用いている限り不可能です。というわけで、今回やってきたのは因果のループをある意味「解禁」してこの世界が存在する理由を考えてみたというものになります。全ての論理をぐちゃぐちゃにしてしまえばそれこそ何でもありなのですが、それだと考察の余地すらありません。それでも、全てを否定することはできません。例えば、我々が理解できないだけで「あるものがそれよりも大きな物から構成される」という世界があるかもしれません。我々はこの世界で培った論理しか使えないので、もしかしたら全く違う世界があるかもしれないのです。もちろん、それは科学的な対象にはなり得ません。ただ、我々が当たり前に用いている論理に対して、何らかの疑念を投げかけるのはそれほど悪いことではないのではないでしょうか。