一つの認識描像

死後の世界って、いい認識だなー

感慨に浸る20代。

忙しい人のための一行要約: 死後の世界を仮定するといいことあると思う!

 

 誰でも一度は「死ぬとどうなるのだろう」と考えたことがあると思います。そして、何かしらの考えを持っているのではないでしょうか。死ぬと、仮に意識が継続していたとしても、身体に物理的な応答が現れなくなるので、生きている側が得られる情報はありません。そのため、客観的な情報を取得して議論を行う自然科学の分野では、死後の世界を取り扱うことはできません。もし科学的に分かっている範囲から妥当な推論をするとすれば、死後の世界など無く、単に終わりを迎えるということになります。

 しかし、死後の世界を仮定すること自体は悪いことではありません。私は、むしろ人生を面白くする良い方法のうちの一つなのではないかと思います。一般的に言えることですが、誤りであると証明できないものは科学的に議論できず、それ故に個人の認識に依存します。このような事柄を「認識任意性」を持つ、と私は呼んでいます。死後の世界というのは、この認識任意性が現れている例の一つで、つまりはどんなものを仮定しても特に問題はないということです。

 死後の世界を仮定することで、多くのメリットが得られるのではないかと個人的には考えています。例えば、死に対する恐怖や焦燥感の緩和などです。これらは自身が認識するものですので、「死後の世界」という認識に依るものを変更することで、自分が持つ他の認識が変更されるということになります。これはなかなか興味深いです。認識任意性を利用して自身の認識をうまく変更できる可能性を示唆していますね。

 私の認識では、死後はこの現実を逸脱すると考えています。というのも、私にとってこの現実は数多ある現実の内の一つに過ぎず、他の現実では異なる物理法則が適応されていたり、そもそも異なる論理が適応されたり、などなど多様な性質を示すと考えているからです。私たちがいる現実は(実はclass0という描像を与えると私しか存在しないのですが)、いわば「現実チュートリアル」のようなもので、この世界の中に存在して苦しむことによって、自身の認識を成長させます。そうして、数学や論理、自分自身に対する深い理解、またはこの現実の論理を逸脱した異常な思考などをある程度実現できるようになることによって、死後他の現実により強く顕現したときにその性質をよく理解できるようになるのです...と、私の世界観はかなり異質に見えるかもしれませんが、こんな感じになっています。本当はもっと深く話したいのですが、あまりにも通常の認識と異なるのでここでは割愛します。お気づきでしょうか?私は、自然科学で説明されている部分に一切抵触せず、認識任意性を駆使して以上のような世界認識を構築しています。ここを混ぜてしまうと、疑似科学になります。自然科学は客観的で再現可能で反証可能でなくてはなりません。そうでない部分を「科学である」と主張してはなりません。なので、「科学ではない」ときちんと了解したうえで、認識任意性を活用してください。

とにかく、私は死後の世界を仮定することで自己成長を促しています。自分がどのように生きたいかに応じて、それに合った死後の世界を構築してみてください。または、それに限らず認識任意性を持つ部分を探し、自分好みの世界認識を構築してみてください。きっと面白いと思いますよ。