一つの認識描像

論理原理主義


・概要
我々は他の生命体と異なり、非常に論理的な思考を行うことができる。これは、人間が人間たる必要条件であると考えられる。この考えを強化し、自らの目的の達成のために邪魔なあらゆる非論理的側面を自己の中から排除し、純粋に論理的な選択を行うことを原理とする。
・論理的思考と感情
論理的思考力は人生において非常に有効なものである。対して、感情というものは実に非論理的で煩わしいものである。しかし、感情を考 慮に入れない論理は、機械が行う思考プロセスと何ら変わりのないものであり、もしそうであるのあらば我々は機械の下位互換に成り下が ってしまう。つまり、自らの目的の達成のために必要でない感情を選び出し、それを論理的な手段を用いて抑制、消滅させることが必要で ある。さらに、感情の破壊、消滅のみにこだらわず、自己にとって優位に働く感情を無条件に生み出したり、増幅させることも、論理的に必要で、論理的な手段を用いて行えるのなら行う。
・欲求
人間には欲求という性能が備わっている。非常に複雑で、煩わしく、時にとてつもなく邪魔に感じられるが、これ無しではそもそも生命として生きていけない。自らの目的の達成のためにこれらの欲求が優位に働く側面としては、おそらく「生命の維持」のほかはないであろう 。したがって、生命の維持に関係のないもの(間接的に関係があろうとも、それが論理的に考えて対策を取ることが妥当ではないと判断さ れたもの)は無視して良い。むしろ、そのような欲求は悪とみなされ、殲滅の対象となるものである。これらの欲求を憎しみ、嫌悪し、動物的であると軽蔑することによって、実際に自分の生命の維持に最低限必要な欲求のみを適切に相手するだけで生きることができるようになる。
・行動と思考と衝動
行動には2つの型が存在する。一つは論理的な思考に基づく行動であり、もう一つは欲求や感情などの非論理的側面によって起こる衝動的なものである。無論、後者は抹殺すべきである。その手法は非常に論理的であり、また、容易である。自己を客観視すれば良い。自分がどのような状態に正確に存在していて、その自分が必要なものは何かを、自分の感情を考慮せずに考えるのである。例として、空腹を感じていることの帰結として、食事という行動を取るということを考えよう。通常、空腹を感じ、食事を摂るのは極めて自然である。しかし、本当にそうであろうか?考えてみるとそうでもないことがわかる。食事を摂ることの目的は、自らの生命の維持に必要な化学物質を体外から摂取することにある。では、空腹時に「今以上に」エネルギーが必要かどうか考えてみると良い。実際、必要ないことが分かる。この肉体にこれほどのエネルギーを蓄えていながら、必要以上に摂取しようとするのにはわけがある。それは、自然界では食べ物が豊富に存在していなかったからである。いつ食べ物にありつけるか分からない状態であるので、目の前に蓄えられるものがあるなら蓄えるべきであるのは論理的である。しかし、そのような時代はとっくに終わっているのだ。我々は、必要な金銭さえあれば、いつでも食べ物を手に入れることができる。このような状況下で、必要以上に蓄える必要がないのは容易にわかる。食べるとすれば、睡眠前に空腹感で睡眠の質が下がるのを防ぐために食事を摂る、または、どうしても空腹に集中がそらされて学習に支障をきたす場合である。この2つでさえ、食事の必要性としてはそれほど高くは感じられない。
・大局的視点
論理的な行動を取るためには、大局的視点と、大局的目標が必要である。人生の幸福感というパラメータを考えるなら、達成すべき目標がないなら、毎日の幸福度を最大にしていったほうが良いからである。そのためには、自分に湧き上がる衝動にかられて、動物的に生きていけばよいだろう。しかし、多くの人間にとって、そのような状況は存在しない。誰しもが、必ず向上心を持ち、目標を持っているはずである。ならば、論理的思考の出番である。自らの欲求を断ち切るのは、最初のうちは辛いものである。しかし、毎回の葛藤で少し妥協すれば、それが何年にも重なって、大きな損失になるというのは言うまでもない。例えば、100%できるところを99%で止めたとし、その影響が積算として積み重なっていくと、50日で、40%の損失が出ることになる。また、逆も然りである。この意味で、前にのみ進むものは長い目で見て大きな成功を収めるものである。大局的視点をもち、目標の達成のために必要な能力を自覚して、それを日々大きく成長させていくのである。
・汝の欲するところを為せ、それが汝の法とならむ
やるべきタスクが存在して、または、達成すべき目標が存在して、それには全く関係のないことをすると、時間を無駄にしたという自責の念に駆られるだろう。また、他のことをしている最中でも気になってしまい、素直に目の前のことを楽しめなくなる。もし、少しでもそのように感じる可能性が存在するなら、この不快な感情を自らのうちに発生させたいとは思わないだろう。逆に、どう思うかは明白である。つまり、目標の達成に必要な行動を取るのである。ここから言えることは、自分の本当に行いたいと望むことというのは、自らの目的の達成のために必要な行動を取ることである。自問自答し、行っている行動が自分の本当に望むものかを確認せよ。そして、本当に心から胸を張って行える行動を取るのだ。
・古い自分を裁いて、新しい自分を得る
過去に執着するのは極悪である。自らの目的の達成のために、未来に向かって努力することを放棄し、ノスタルジーに浸ることは、時間の無駄であり、それはすなわち、人生の無駄、命の無駄である。我々は未来へ向かって成長しなければならない!過去の自分というのは非常に客観視しやすい。なぜなら、時間軸上の異なる点に存在しており、相対論的な立場を取るならば、純粋に「距離が離れている」からである。この過去の自分を観察すれば、至らない部分が自然と見えてくる。そして、自分の中の邪魔なあらゆる部分を排除するための参考にするのである。
・他人を気にする必要はない
自分を誇るが良い。そして、自分というものの個性を殺してはならない。絶対にだ!自己を尊重せよ。自分は他と異なる人間で、他人の言うことなんぞ気にしてなるものか!というくらいの気概で生きていくのが良い(論理的に考えて有効な助言は積極的に取り入れよう)。他人に流されていけば、自分の特有の目的など達成できるわけがないのは、論理的に明白である。また、積極的に他人と議論せよ(もちろん論理的にである。感情的な議論はなんの生産性もない)。自分がどのような人間であるのかを再確認することができる。また、単純に議論するのは面白くて、生産的であるからである。相手は選ぼう。
・必要なのは強い意志ではない
これらの行動を行うためには強い意志が必要であると感じられるかもしれない。しかし、そんなことはないのだ。必要なのは、常に論理的であることであり、論理的思考の帰結を当然のように実行することのみである。論理的であることのみが必要であるのだ。