一つの認識描像

人生における娯楽等、おおよそ将来の役に立たないものに対する考察と見解

注意:以下の文章は、自分が自分に対して行った考察であり、完全に主観的な意見が書かれています。自分と同じような問題を抱えている人の参考になれば幸いですが、あくまで参考程度にとどめておいてください。私はわたし、あなたはあなたです。

 


問題点:将来の役に立ちそうにないものは、完全に排除すべきであるという意見に対し、論理的には賛成するものの、どこか引っかかる感じがするので、この点について考察を行っていきたい。


本論に移る。単刀直入に、娯楽は必要がどうかを考える。答えは、必要である。まず、娯楽というものの定義から入る必要がありそうだ。娯楽とは、自分に楽しみを与えてくれるものである。能動的な娯楽を趣味という。例えば、「趣味は物理です。」とは、「私は物理に積極的に関与し、その結果楽しさを感じています。」ということである。娯楽とは、そのもの単体として定義できるのではなく、ものと人間の関係においてのみ成り立つ。つまり、可変的で相対的なものであると言えよう。これは、人生における幸福感と大いに相関があるだろう。つまり、幸せな人生を歩むためには娯楽は必要なものである。娯楽以外で、幸せになる方法を考えよう。例えば、苦痛を味わいながらもなにか物事を達成するという方法がある。達成感は幸せにつながる。LaTeXが初めてうまくいったときは嬉しかった。これはこのたぐいの幸福感であろう。これは、幸福を感じるまでにタイムラグが有る。つまり、達成は比較的困難である。対して、娯楽はそれに触れている段階で幸福が発生しており、タイムラグがない。これが、娯楽にのめり込む原因であり、その娯楽が人生の役に立たない場合、ないし、娯楽として楽しんでいるだけでは目標達成に繋がる可能性の低い場合に悩む原因になるのだ。このとき、大きな不安感を感じる。どのように、人生を愉しめばよいだろうか。また、娯楽とはどうやって付き合えばいいだろうか。
まず、自分を貫く非常に大きな、そして残酷な哲学を土台とする。これは、最近のマイブームであるから、未来には変わるかも知れない。現時点での私の、いわゆる「原理」は、人間、ないし生物は単なる物理的な現象に過ぎず、熱力学の法則によって「死」が確定している存在である。現時点で、死者が蘇生したり、肉体から切り離された「魂」が存在する科学的に十分と言える根拠は全く出ておらず、つまり、死ねばおしまいである。これは非常に恐ろしいことであり、今の私はこのことが非常に怖い。死が怖いのである。怖さとともに、悲しさや切なさ、やるせなさを感じる。これは、今現在も死に近づいていること、つまり、常に徐々に死んでいっていることから、過去に対しても同じような感情を抱くこともある。ときに、それは懐かしく、ときに悲しいものであるが、前者の場合をノスタルジー、後者の場合を自分の勝手な命名で「パストロス」と呼ぶ。つまり、死への恐怖は未来からみた現在のパスロロスであり、不思議なことに未来の恐怖が現在ないし近未来に直結しているのである。現在から離れた時間座標における主観を持つことを、また自分による造語で「テンスラグ」と呼ぶことにする。では、何に恐怖するのか、具体的な内容を考えてみることにする。大きな原理として「死ねばおしまいである。」ことに留意する。このことから、時間は永遠でないことが分かる。短すぎるほどに短いのである。しかし、何かを成し遂げないには長すぎるくらいの時間である。この時間は完全に不可逆的なものである。つまり、どのような手段を用いても取り戻すことができない。しかし、死が怖い、というのはおかしな話でもある。なぜなら、自分が存在しなくなることに対して自分が恐怖しているからである。例えば、これも確実に起こることだが、親が亡くなるとする。想像するだけで非常に悲しいが、確実に起こることである。これは、なぜ悲しいのか。自分に尽くしてくれた親が、死ぬ。例えば、それまでに自分が十分に親孝行していなかったとすれば、悔やまれることだろう。彼らが見返りを求めているとは思えないが、二度と逢えなくなったことによって、自分がなにかできる機会を完全に失う。可能性は0になるのである。ここで、もう一度合う確率は0、もう一度会話する確率は0、感謝を伝えられる確率は0、親孝行できる確率は0となるため、死は確率の収束を表す。そして、確率は時間の減少関数となっていると考えられ、人間の寿命に近づくにつれて十分速く収束に向かうかも知れないし、そうではないかも知れない。それは、自分の心の持ちようの関数になっている。とにかく、可能性を失うことへの恐怖、悲しみは大きいのではないだろうか。では、自分が死んだ場合はどうなるだろう。自分が死ぬと、全可能性が0になるのである。これは、「死ぬとおしまいである。」と同値である。よって、これからは自分の人生における基本原理として「死を迎えると、自分が持つあらゆる可能性が0になる」を採用する。そして、これに恐怖していると仮定する。少しづつ、本論に近づけていこう。時間を費やすことは死であり、その時間における行動を変える可能性を0にすることである。つまり、本来ならば時間が過ぎる事自体が恐怖である。そして、ここから目をそらしてはならない。あくまで、ここに生きるものならばこのことを自覚する必要があるのだ。この事がわかると、娯楽が不安感を生む原因にも気づけるのではないだろうか。つまり、娯楽に費やす時間は二度と帰ってこない。これが建設的なものでない限り、なんの意味もなく死ぬことを意味し、そこに大きな不安と恐怖を感じるのである。ここでおおきなコンフリクトが生じる。人生にインスタントな幸福をもたらしてくれる娯楽は、ともに不安と恐怖をもたらすのである!!このことは、実際に自分が感じている内容にも一致し、自分の考察が正しい方向に進んでいることを示すものである。しかし、自分がまだ小さかった頃はそうではなかった。バカみたいに遊んだり、ゲームをしたりしても、なんの不安感も感じなかったのである。ここにどのような差があるというのだろうか。そして、その頃の娯楽と現在の娯楽はどのような関係で結ばれるのだろうか。この点を考察するにあたって、小さい頃の自分が持っていた死や未来に対するイメージと現在のそれがどのように異なるかを考える。小さい頃には、あまり死や未来に対する具体的なイメージが無かったように思える。死が怖いと考えていたし、将来の夢を持っていたが(そしてその夢は今も変わっていないが)、具体的に深く考えることはしなかった。つまり、今のほうがより死に近く、それは物理的にも精神的にもそうである。ここで、時間軸を空間軸と同様に扱う相対論的な視点を取ることにより、死に物理的に近いという文面を成立させている。考えれば当然のことである。娯楽が不安を生む理由は、意味もなく死んでいることを自覚するからであり、時間の経過と死が結びつかない段階では不安など感じる必要がない。つまり、小さい頃の娯楽は純粋な喜びを与えてくれるものである。多くの人が幼少期を幸せなものと捉える事が多いのは、これが一つの原因であると言えよう。では、死に近づいてしまった私はどのように娯楽と向き合えばよいのだろうか。これは非常に難しい問題である。簡単な選択肢を2つ上げることができる。一つは、娯楽をすべて排除すること。もう一つは、死への恐怖を完全に捨て去り、娯楽を純粋に楽しむことに集中することである。人は、いずれ前者の選択をとっていくようになるかも知れないと、私は考えている。しかし、そう考えると、理由はよくわからないが悲しくなるのである。つまり、この選択は少なくとも現在の私にとって納得の行くものではない。後者については、愚かな選択であると考えてしまい、これにも納得できないのである。自分の人生について考察する際は、自分が納得できるまで考え抜くことが重要であるため、他の選択肢を考える必要がある。ただ、前者の選択にかなり近いものになると考えている。なぜなら、論理的に考えて利点が大きいからである。自分の人生をより良いものにするためには建設的でないことをするべきではないというのは理にかなっていると考えている。もちろん、これは現時点での考えであるため、未来においてはわからない。しかし、自分の娯楽は決して自分に対して害をなすものではない。たとえば、大きく健康被害に関わっているものではないし、脳機能を著しく低下させるものでもない。娯楽のもっとも不利な点は、娯楽そのものには存在しない。何をするにも時間が必要であることからくるもの、時間の経過に対する恐怖からくるものである。もしかすると、ここから少し脱線するかも知れない。時間の経過に対して恐怖するならば、なぜ建設的なことをしているときに不安を感じないのか。これは謎である。恐怖を打ち消す何かがそこにある。建設的なことをすることは、今の自分の幸福を犠牲にして未来の自分の幸福を増やす行為である。そして、未来での幸福は一般に犠牲にした幸福より大きい。ここに、答えがある。すなわち、自分が今の幸福を感じて生きていく場合に人生において感じる幸福の総和よりも、建設的な行動により未来の幸せを勝ち取る場合に感じる幸福の総和のほうが大きいのである。ここで、仮に人生の消費パラメータを「時間(寿命)」から、「幸福」にすると以下のことが成り立つ。単に今感じることができる幸福を感じて生きていく場合には、その幸福は「消費」される。幸福が消費され、死は感じる幸福が0になることを意味する。建設的な行動を行った場合は、幸福が「利子が付く状態で未来に先送り」され、幸福は「生成」される。前者の場合は幸福は消費される一方で、それは不安につながる。後者の場合は人生における幸福の期待値が増大するため、安心感につながる。これが、建設的な行動をとっているときに不安感や恐怖を感じにくい原因ではないだろうか。それだけではない。建設的な行動をとっていると、どこかで「目標が達成された」状態になるが、そこで終わりではない場合が多い。達成感を感じつつ、さらに建設的な行動を取ることができるようになる。幸福の総量が時間の増加関数になるのだ。ちなみに、目標が達成された段階で終わってしまうとき人は「燃え尽きた症候群」になるのではないかと考えることもできる。では、やはり娯楽は不要なのだろうか。例えば、その娯楽の世界で大きな目標を達成する事ができるが、この場合はどうだろうか。これは確かに幸福感がプラスされるかもしれないが、しかし人生に寄与しないならばどこかで終わりが来る可能性が高い。その可能性まで考えると、不安感に襲われることは必至である。よって、人生に寄与する形に娯楽を持っていけばよいのである。娯楽を完全に無駄な時間にするのではなく、何かしら人生の幸福度に寄与し、効果がより長く続くように人生の中にうまく組み込むことができれば、インスタントな幸福を感じながら、幸福を増やしていくことができる。これこそ、本当に幸せな人生ではないだろうか。つまり、人生において自分の達成したいことに対する努力やそこに向かうための建設的な行動を取りつつ、自分にとっての娯楽を人生の設計図にうまく組み込んで人生をより良いものにするための一助にできればそれは素晴らしいことではないか。取り敢えず、今回はここで終了する。実際に具体的な手法はまた考えるとして、また自分に対するよい考察ができたのではないかと満足している。この、考察も自分の娯楽の一つである。