一つの認識描像

人間が怖いので、認識から人間を削除しようとした話とその具体的方法

人間は恐ろしいですね。もう、怖い。できることなら山にでも籠って一人で暮らしたい。しかし、私にはそんな能力はありません。なので、人間を認識上消去することにしました。以下に、基本的な考えと具体的な方法を記述します。

1. すべては認識である

まず、対象が何であれ我々が「何かが存在する」と知覚するというのは、紛れもなく認識です。もしある物が存在するという認識が不可能であれば、目に映るのは単なる色の領域の重なりです。これは極端な話ですが、実際この「主観的な認識」は生きていくうえで重要なものです。例えば、目の前にリンゴがあればそれを食べ物であると認識します。赤くて丸い石が落ちていても、食べ物とは思えません。つまり、適切な認識は生存を助けるのです。このような認識を不用意に否定してしまうと、日常生活に支障が出てしまいます。しかし逆に言えば、うまく自分の認識を歪めることが出来れば生活に支障が出ない範囲で世界に対する意味づけを変更することが出来るのです。私はこれまでの人生で何度か困難に遭遇し、そのたびに自分の認識を変更、強化して自分だけの世界認識を築き上げてきました。認識に関する任意性というのは、考える力さえあれば見つけ出すことが出来ます。世界は物理法則に支配されており変えるのは難しいですが、それがどう見えるのかは比較的容易に変えることが出来ます。その一歩として、自分が見ている世界はすべて自分の認識である、という認識を持ちましょう。確かに、「すべて」というのは少々やりすぎな気もします。現に、自然科学というのは各人の認識に対して不変的な、この世界に対する説明方法を与えるものです。しかし、今まで見てきた世界が自分の認識に依存する部分を多く含むということを強く自身に了解することが重要なので、ちょっとばかり言いすぎな表現にしてみました。これを機に、自分がどのような認識体系を持っているのかを自問自答する習慣を身に着けると、自分のことがよりよく分かるようになると思います。それでは、ここから人間を消してみましょう。

2. 自分が認識できない部分はどのように解釈するのか

でもその前に、なぜ人間が怖いのかを考えてみます。これは一人ひとり異なる部分だと思います。私の場合は、他の人が自分に対してどのように思っているのか分からず、もしかすると自分が思っている以上に嫌われていて、自分が精神的、物理的に攻撃される可能性があるという部分が怖いと思っていました。そして、この「他人が自分に対してどう思っているのか分からない」という部分が重要な点であることに気づきました。ここで、少し「自分」という存在について考えてみましょう。私は、「自分は関係の中に存在する」と考えています。例えば、Aさんから見た自分、Bさんから見た自分、もちろん自分から見た自分もいます。自分から見た自分と、他人から見た自分に不一致が生じているとき、かなり不協和を感じるのではないでしょうか。いわゆる、「自分は正しく評価されてない」と感じる現象です。これは重要な社会的スキルで、集団の中で自分の能力を高く見せることが、自分の生存につながるという原始時代の名残です。そして、今の自分にはこの能力はそこまで必要ではないと判断しました。私は、別に他人から評価されたいわけではありません。私は自分が作る世界認識やものが好きで、他人がそれに関してどう思うかなど、どうでもよいです。自分は、自分から見た自分のみに限定されるべきである。そう考えました。そのためには、他人からの自分に対する認識を消せばよいのです。これはどうすればよいでしょうか。そもそも、他人は自分を認識しているのでしょうか。

少し考えてみてください。そもそも生物とは何か。生物は、物質からできており、物質は物理法則にしたがいます。外部刺激に対して、何らかの応答を示します。仮に、自分以外の人間が「意思」なるものを持たず、外部刺激に対して自動的に応答しているだけでも、見える景色は変わりません。いつものように社会は動きます。これは私にとって、認識の任意性でした。他人が自分を認識しているのか、これは分かりません。そして、認識していると仮定しても、その逆を仮定しても、特に現実との不一致はありません。私は、単に後者を選択することにしたのです。これによって、今まで「他人」だったものは、「外部刺激に対して何らかの規則的応答を行う自動的構造」になりました。私を認識する存在は、もはや私しか存在しません。自分以外の、自分と類似する物理的構造を持った存在をこれからclass 0 顕現状態と呼ぶことにします。

3. 本当にこれでよいのか

あとは、class 0 顕現状態に対する無機的な認識を強化し、それらが自動的に作り上げた社会構造を、自身の安全を確保するために最大限利用していくという形で事を進めていけば、それ以上この物理的世界の中で考えることはありません。そして、自分の中にある世界を育てて、その中により強く存在すればよい。そう思ったのですが、大きな問題が残っていました。私の大切な友人は?家族は?彼らに対しても同様に無機的な認識を持つというのは、自分の中で大きな不協和を生み出します。この問題を解決するために、私は人間という概念を部分的に復活させることにしました。今や、人間は私の中にしか存在しない、認識上のものです。なので、自分が大切だと感じるclass 0 顕現状態に対して人間であるという認識を持つことにしました。また、class 0 顕現状態でなくとも、自分の世界の中の特定の存在群も人間であるとすることによって、私は人間を再定義したのです。統一的でなく、客観的でないと思う方もおられると思います。それは原理的にその通りで、今は客観的な世界説明ではなく主観的な認識について考えているからです。この部分をちゃんと切り離すことによって、自然科学と主観的認識は両立し得ます。特に、後者から前者への持ち込みは禁じられます(ここをごちゃごちゃにするとオカルトや疑似科学になってしまいます)。とにかく、今や人間は自分の大好きな存在です。やったね!

4. まとめと補足

以上が、怖い人間を消してclass 0 顕現状態という概念に変更し、人間を再定義した過程になります。実は、この裏には死による安寧やself-closedといった考えがあるので、受け入れることが出来ない方もおられると思います。この世界には人の数だけ認識があるので、ぜひとも自分だけの認識体系を構築してみてはいかがでしょうか。きっと、人生に対する見方が大きく変化すると思います。