一つの認識描像

自己肯定的であるのはなぜ難しいのかと、解決法の一例

結論から言うと、肯定的であるための根拠が相対的な指標に依存しているから、だと考えました。以下、説明を行います。

自己肯定というものを、「『自分はすごい!』と思うこと」であると、とりあえず考えることにしましょう。では、すごいとは何でしょうか。自分が凄いなら、その根拠は何でしょうか。例えば、1+1=2が計算できる人が稀な世界では、あなたは超絶ハイパー凄い人です。おめでとうございます。しかし、幼稚園児でも超弦理論を理解できるような世界では、あなたは恐らく凄くはないでしょう。つまり、実は「自分はすごい!」とは、「自分は他の多くの人に比べてある特定の能力が高い!」であり、その定義は自分の中で閉ざすことが出来ません。自分に対する肯定の根拠が自分の外側に存在すると、自己肯定状態は不安定になります。上には上がいますからね。

もっと抽象的に、「自己」というものを考えてみましょう。つまり、あなたそのものについてです。あなたは、何を以って「自分である」としているでしょうか。これは難しい問題で、様々な側面があるでしょう。そのうちの一つとして、「他者と異なる」を挙げることが出来ます。自分は社会の中で、他の人と異なる存在であり、その異なり方が自己の特徴づけ、つまり「キャラクター」となっているということです。ここで私が指摘したいのは、「自己の定義に他者依存している部分がある」ということです。環境が変わったとき、例えば大学に入学したときなどに「私はどこ・・・?」となった経験はないでしょうか(もしあれば仲間です)。これは、自己の定義のうち、他者との関係に依存する部分が環境の変化によって摂動を受け、その結果自分というもの自体が揺らいでしまうという現象であると考えることが出来ます。

つまり、これら問題を解決するためには、肯定の根拠、ないし自己の定義を自分の中で閉じることが重要です。私は丸3日使ってこれについて考察したのですが、たどり着いた結論は何とも陳腐に思えるもので、「楽しいなら、それでいい」というものです。私は、自己存在の肯定の根拠として「少なくとも、何か一つでも楽しむことができる」というものを定義しました。これは自分が楽しければ達成されるので、他者に依存しません。いや、正確に言うと「自分を楽しませる術を自分の中で閉じる」まで含めています。こうすることで、自己肯定の基準を完全に自分の中で閉じることに成功しました。おまけに他人に(少なくとも明示的には)迷惑を掛けないようになっています。私の場合は、勉強したり考察したりするのが大好きなのでこれで満足なのですが、自分が楽しいと思うものは人それぞれ異なると思うので、ぜひ自分で定義を考えてください。

蛇足ですが、楽しいなどの感情の肯定について少し記述しておきましょう。例えば、美しいものを見たり、美味しいものを食べたりしたとします。すると、それを写真に撮って友達に見せたり、一緒にお店に食べに行ったりすることがあると思います。このとき、「自分の感情の正当性」を向上させようとしていると捉えることもできます。もし、友達も「綺麗だね~」とか「美味しいね~」とか言ってくれたならば、「やっぱり、自分が感じたものは間違ってなかったんだ」と、自分の経験の正当性が向上します。たいして、「え、いやそんなに」という風に反応されると、「あれ、私ってもしかして間違ってる・・・?」という風に、自分の経験の正当性が揺らぎます。なので、本当に上記の自己肯定の定義を自分の中で閉じるためには、「自分の感情を無条件で信頼し、感情を発生させた対象に対する他者の反応とは完全に独立である」としなければなりません。考えてみると、いかに我々が相対的な指標、ないし他者依存の中で生きているのかが分かります。ここでの考察が、皆さんの役に立てば幸いです。