一つの認識描像

間違いなんてない。hyper neutralという考え方

私の世界認識の根幹をなすものの一つとして、hyper neutralという考え方があります。これは、「異常なものは存在せず、ただ認識が局在化しているだけである」というものです。言い換えると、「全ては、適切な認識体系ないし論理体系を取ることによって正しくなる」という考えです。

小さな書き間違えから、自分の考えと相容れない価値観まで、この世界には「間違っている」と自分によって認識されるものが存在します。これは、論理的な誤り(定義に反する、妥当でない推論による帰結である)と、価値観の違い(個人の考え、社会通念)として判断されていると考えることが出来ます。逆に言えば、それは自分が普段排斥している世界を教えてくれるものなのかもしれません。言葉の定義からの誤りは難しいかもしれませんが、例えば書き間違えに対するある程度妥当な解釈を与えることができるかもしれませんし、「それは誤謬では?」と判断された言明に対して、それが正当化されるような異世界の論理を考察するのも面白いかもしれません。もちろん、価値観の違いに関しては、別の人がどのような考えを根拠にしているのか、その価値観を妥当でないと思う自分の中の考えは何か、といったことを考えることによって、自分の世界を広げることが出来ます。

一見おかしなものに対して、「まあ、そういうこともあるよね」と思うと、意外と面白いこともあるかもしれないよ、というお話でした。