一つの認識描像

認識に関して不思議に思うこと

私たちは、認識します。私には、私が認識していることを疑うことは不可能です。つまり、自分の認識を絶対に信頼できるものとして、考えの基盤に置くことができます。そんな、私にとってこの上なく重要な「認識」ですが、よく考えるととっても不思議なものです。

この記事では、私が個人的に「接続」と呼んでいるものを書こうと思います。
私たちは、情報を取得します。これは、何らかの作用によって認識が与えられているということです。すべてを薙ぎ払ってあらゆる可能性を考えると、例えば外部の絶対的な存在によって与えられているとか、もしくは因果異常を用いて遠い未来の自分から与えられているとか、もしくは因果異常でも説明不可能な未知の手段によるものか、自分かつ自分でない存在か・・・おっと、ちょっと逸脱しすぎましたね。まあとにかく、我々は情報の認識を持ちます。これは視覚的情報だったり、聴覚的情報だったりします。
さて、読者さんはこの文章を今知覚していると思います。そして、一文前を認識していたときから「下に行って」認識しています。つまり、「同一の情報の、別の部分を見ている」と認識していると思います。そんなの当たり前じゃないかと思われるでしょうが、これって一体なぜなのでしょう。一秒前にあなたが認識している情報と、今あなたが認識している情報は大きく異なります。それがぽつぽつと認識されるのではなく、何かしら関連すると認識されるのは、自明なプロセスではありません。概念の発生というのも、ここから生じます。2つの情報が何かしら関連しうると認識されて初めて、「比較」が行われます。そこから、他と隔離された特徴的な情報の集まりとしてぼんやりと概念が構築されていくのです。この「何かしら関連しうる」を実現する認識作用を「接続」と読んでいます。時間の認識が生まれるのもこのためです。この接続がなければ、我々が享受する認識作用のほとんどが存在しなくなるでしょう。

よくよく考えると、一口に「認識」といっても様々な作用があり、驚くべき性質と構造を持つことがわかります。その最も根源的なもののうちの一つとして、接続を紹介しました。当たり前に気づくのは、いつでも難しいものですね。