一つの認識描像

認識から自己を定義してみる

私は、認識します。しかし、これは本当でしょうか?私とは、自己とは一体なんなのでしょうか?とにかく、認識の存在は自明にわかります(気持ち悪いですが)。なので、存在が了解できる認識から自己を定義してみます。

認識は改変されます。例えば、手を動かすというのは視覚的情報などの各種認識の特徴的な改変です。これは、認識改変の「意志」の認識の後に起きると、主体的な改変であるとして認識できます。自己を存在させない立場に立つと、認識改変の前に特徴的な認識が認識されることとなります。存在するのは、認識のみです。この特徴的な認識(例えば、手を動かす一瞬前の、手を動かそうとしている感じや、動かそうという思いなど)をまとめてprecと呼びます。precがある改変は「主体的」であると認識され、ない場合は外的なものであると認識されます。
つまり、逆にprecの有無で改変の「主体性」を定義できます。precは認識であるので、自己を仮定しなくても大丈夫です。しかし、「認識しているのならば、その認識主体が存在するはずである」という感じはあります。これに関しては、「認識していない状態の可能性としての認識」が関与していると思われます。例えば、あるものから手を離したり、目や耳を塞いだりできますが、これはprecからの認識改変です。この「主体的」な改変が認識全体に汎化されて、広い認識状態に対する「主体的」改変可能性が認識されることとなります。もしくは、認識に目を向けて議論する時、必ずprecが発生します。物理学的な実験において、対象と相互作用して対象を変化させなければ情報を得ることが出来ないのと同じように、認識は議論している時点で議論したい認識では無くなっている可能性も考える必要がありますね。

この立場だと、「我思う故に我あり」というよりは、「『思う』という、precに追随した特徴的な認識の存在が確約されていて、『我』が素朴な意味で存在するかは分からない」ということになります。ここで、precの存在について、その「認識の発生」の存在に目を向け、さらに「発生させる者」の存在を仮定した際に、初めて「自己」が出てくると思います。つまり、自己は自明な存在ではなく、認識と仮定の塊の名前ということです。(-_-)ウーン...