一つの認識描像

推測と推論と概念

私たちは、推測を行います。推測は、今得ている情報から過去の経験を踏まえて次に起こる事象を予測するということです。推測は、繰り返しの認識から生まれます。ある事象Aが起きたあとに、別の事象Bが起きた。これが一回だけなら、関係ないかもしれません。しかし、それが何度も起きた後にまたAが起きれば、「Bが起きるだろう」という推測を行うことに繋がります。
推測は外れることもあります。この世界は、気まぐれな側面を持っているからです。もちろん、再現可能性が十分に担保された推測も存在します。例えば1つの何かを持ってきて、もう1つ同じものを持ってきて、並べて数えると2つになります。それは、りんごでも、なしでも、みかんでも、傘でも成立します。そして、誰もそれを疑わないでしょう。これは「1+1=2」ということです。しかし、私たちはこの宇宙の中に存在するありとあらゆるものに対して、上記のような並べて数えて2つになるという確認をしたわけではありません。なので、もしかすると並べて数えたらいつの間にか1つ増えて、3つになるような奇妙なものがあるかもしれません。もちろん、そんなことは起きそうにないと思われるでしょう。これは一種、この「1+1=2」というものに対する「信頼」を行っているということになります。信頼できるかできないかは、今までの経験に依存します。推測というのも、一つの事象が起きた後に何がおきるのかについてはありとあらゆる可能性が考えられますが、その中で最も信頼できるものを念頭に置くことになるでしょう。

しかし時に、信頼を超越した構造が得られることがあります。1という概念、2という概念、+という概念を厳密に「定義」してしまうことによって、「概念の定義から1+1=2」ということを言えるようにできます。ここでの「1+1=2」は、もはやこれで決まってしまっているので、現実世界で並べて3つになろうが関係ありません。もちろん、これに迎合するために定義を書き直せば変化しますが。推論というのは、経験による信頼に依存せず、概念の構成法に依存します。厳密に定義されない、自然に発生する概念にもその認識が構成されていく過程が存在し、それを受けた推論が存在します。

三段論法をご存知でしょうか。これは、「AならばB」、「BならばC」が分かっていれば、「AならばC」がわかるというものです。これは、我々がどのように概念を認識するのかを考えることで理解できます。概念は、認識される複数の情報(視覚、聴覚など)に対して、その類似点などを認識してカテゴライズし、そのカテゴリーに名前をつけたものと考えることができます。例えば「赤」という概念は、りんごの視覚的情報やイチゴの視覚的情報などに共通する特徴的な情報です。同じような感覚に名前をつければ、情報を扱いやすくなります。そして「AならばB」とは、「情報がAに分類されるなら、それはBのカテゴリーにも入っている」ということを意味します。例えば、「りんごは果物」、「果物は食べ物」というものを考えてみましょう。果物とは、木に成っていて食べられる、往々にして甘酸っぱい者たちの集まりに、カテゴリーとして名前を与えたものです。食べ物とは、食べられる者たちの集まりに、カテゴリーとして名前を与えたものです。なので、たとえりんごが食べ物であると知らなくても、りんごは果物であることを知り、果物は食べ物であることを知れば、りんごは食べられる者たちのカテゴリーに入るということがわかります。「AならばB」のBにくる概念は、Aよりも抽象度の高いものであり、Aのある性質に着目して「その性質を持つ情報全般」とすることでAの拡張としてBを定義することも可能です。自然な概念は情報の集まりの名前であり、Bはより多くの情報を含むカテゴリーの名前になっています。集合の包含関係のようにして、Aを特徴づける情報群はCを特徴づける情報群に含まれることがわかり、よって「AならばC」がいえます。

このように、情報の集まりの名前としての概念を考えると、推論というものがそこから自然に出てくるのがわかります。もしかすると、似たようなものに名前をつけるというのは自然界において得られる情報の扱いを容易にし、我々の生存を助けた可能性があります。推論というのは、生き残るための機能の賜なのかもしれません。