一つの認識描像

説明不可能な認識

私は、独り言をよく言う。しかし、言おうとしていることは既に「知っている」。わざわざ言わなくても、認識できる。そこで、この「自分自身に対する観念の言語による説明」を排してみると、驚くべきスピードで簡単な思考が推移していくことが分かる。
しかし、深掘りするのは難しい。論理(Lc)的に考えるためには、一度言葉にして自身に良く了解させた上で、思考を巡らせる必要がある。新しい考えを得た時、それは一瞬であり、次にその考えの言語的な表現が現れ、そして文字という視覚的情報で記録することになる。
このように、通常の思考・観念であれば、言語化というミーム化が可能である。しかし、他の感覚によく目を凝らしてみると、あまりにも説明が困難なものも存在する。例えば、私はふとこの世界において見るはずのない視覚的情報を得ることがある。もしくは、異常な確信、その他の感覚でも良い。言葉が無いだけかもしれないが、どうにも説明できない。よくわからない視覚的情報とともに、そこに図形を見出すことができるかどうか分からなくとも、「??形がある」という認識がなされ、そして??に何が入るのかは分からないが、親しみのあるような全く異質で排斥したくなるような感覚が、もっと曖昧で複雑な認識とともに顕現するなど。

説明できないものは、抑圧される傾向にある。これは他者に共有できないため、重要性を失う。しかし、私は半ば意思疎通を諦め、これら説明できない認識に再度目を向けることにした。現出する感覚はあまりにも多様で曖昧で奇妙であり、何らかの形で理解するのはもっと時間がかかるか、不可能なのかもしれない。曖昧なものをそのままにし、自分自身への説明を試みようとせずにただ認識する。これは難しい。認識において、気分が悪くなるほど多くの作用が複雑に混在する。これを無為に出来ない無力さをも、そのまま内包する。