一つの認識描像

疑問を抱くことで人は優しくなれる

この世界には多種多様な人間がいて,優しい人もいますが攻撃的な人もいます.攻撃的な人に対して,そのような人たちは痛い目に遭うべきだと考える人もいます.これは,人に優しくできずに攻撃してしまうのはその人の問題であり責任であるという考えに基づくと考えることができます.しかし,もう少し詳しく考えてみると,そのような批判はある意味的外れだと分かります.

例えば,冗談に対していつもマジレスしてマウントをとってくる人がいるとします.このような人に対して,周囲は好印象を抱きづらいと思います.それで「あいつは面倒なやつだ」と嫌悪感を抱くかもしれませんが,その背景について思案することはあまり行われないかと思います.
考えてみましょう.なぜ,この人はマジレスしてくるのか?どんな考えが裏にひそんでいるのか?その考えを持った理由として,どのようなものが考えられるか?
今回の場合の一つの説明方法として,彼は「正しいことがいかなる状況においても良いことである」という考えを持っている可能性があります.また,マウントをとってくることから,承認の部分に関して問題を抱えている可能性があります.これらの認識特性が育まれた原因を考えてみましょう.人間は,遺伝と環境によってその特性が決まるとされています.なので,その人はたまたま脳の構造上そのように考えやすいのかもしれません.もしくは,彼の親が極度に正しくない人を許容しない性質で,正しくないことを言うと強く攻撃されていたのかもしれません.すると,「正しくないこと」が「被攻撃可能性」に結びついて非常に不安になり,その不安をどうにか取り除こうとして訂正と優越を行っているのかもしれません.

自分がどんな遺伝子で生まれてくるか,親が誰でどんな家庭環境かは,子どもには選ぶことはできません.なので,実は攻撃性を持っている人というのは「単に運」で生まれるとも言えます.運が悪かっただけなのです.そして,成功している人も運の側面も強いということを忘れてはなりません.
例えば,私はとある旧帝大に学科1位で合格しました.確かに,相当な努力はしました.しかし,努力できたのも案外「運良く努力できた」だけかもしれません.たまたま五体満足で生まれて,たまたま不安を感じやすいので事前の準備をこなすタイプの人間で,当時パワハラ担任でしたがたまたま最後まで受験頑張れただけです.努力するという選択肢の存在とそれを選ぶ割合の十分さは,特に自分で環境を選べない子どもの頃なんて運の要素が強いと言わざるを得ません.なので私は,別に自分が偉いとは思いません.
社会的には,成功できなかった者は努力不足で自分の責任だからと,見下される傾向にあるかもしれません.しかし,その裏には個人では避けがたい問題があったと考えると,単に運の悪かった人を見下すというのは人間としてあるべき姿だとは思えません.色んな意味で「悪い」と判断される人に対して攻撃し,優越するというのは人間の性質の一つです.しかしこれは思考停止であり,すべての人間に人権を認めるのであれば,運の良し悪しで軽蔑が正当化されるわけがないのです.

幸い,このような認識特性の多様さ,それによる生きづらさに対する理解は深まっていっているように思います.多様な考え,柔軟な考えは精神科の治療などで身につけることができますし,福祉の手を借りる事もできます.上で話したような考えが社会的に理解されていけばこのような支援を受けるハードルは下がっていくと思いますし,社会が優しくなっていくのではないでしょうか.