一つの認識描像

「エイプリルフール」という言葉の使用に対する違和感とその概念の特異性についての考察

今日(7/9)はエイプリルフールでも何でもないが,ふと「『4/1はエイプリルフールだ』という文章は違和感がすごい」と思ったので,この違和感の正体について考察した.

結論としては,私の認識上「エイプリルフール」が「4月1日」自体の別名ではないからだと考えられる.例えば1/1はお正月である.これは特に私にとって違和感を齎すものではない.なぜ違和感がないのかというと,「お正月」自体が1/1を指すからである.お正月には餅食べて独楽を回して遊んだりするわけだが,「1/1に餅を食べたり独楽を回して遊んだりすること」をお正月と呼んでいるのではない.ただ,1/1という日付だけでお正月なのである.そこには特に能動的な参加という認識は無く,別にお正月らしいことをしなくてもお正月なのだ.
対してエイプリルフールはどうだろうか.エイプリルフールとは,「4/1には嘘をついても良い」という認識を指すと思われる.これは例外的な許可である.そして,4/1に嘘をつくことが4/1をエイプリルフールたらしめる.エイプリルフールとは風習であり,ある意味でイベントのようなものだ.例えば8/15に夏祭りがあったとしても,「8/15」は夏祭りではない.終戦記念日である.ただ別に「明日は夏祭りだね」という文章は違和感を生じない.これの意味するところは「明日には夏祭りが開催されるね」というものである.しかし,「4/1はエイプリルフールだね」ということに関していうと,私はやはり少々違和感を覚える.別にエイプリルフールは開催されるものではないからであろうか.
まとめると,エイプリルフールは日付の代替名称ではなく許可の認識を指す言葉であること,それは能動的に開催されるわけではないことが違和感の種になっているように思える.「4/1にエイプリルフールという概念が顕現するね」と言ってくれたほうが,私にとっては違和感は少ない.

エイプリルフールはイベントのような意味合いを持つと思ったが,能動的に開催されないイベントというのはかなり特異なものである.エイプリルフールの条件は単に時間であり,4/1 0:00に開始され,4/1 23:59を過ぎると自動的に終了される.指定された時間に特別な認識を齎し人間の行動が変化するという観点において,エイプリルフールは丑三つ時に似ている.ただ,丑三つ時は時間の範囲そのものを指すので,その点で異なる.エイプリルフールの類似概念は,「ある時間の範囲である特定の行動が許可される」という特性を持たねばならない.・・・青信号か.
信号が青ならば,通行しても良い.別に通行しなくても良い.これは能動的ではなく,時間で制御されているとする(能動的なものもあるので,それは今は考えない).エイプリルフールという概念が存在しているという状況は,「信号が青ならば,通行しても良い」という認識そのものに名前がついているという状況に対応するだろう.「時間的条件付き許可認識」が一つの言葉となっているのは,私にとっては珍しいものに見える.もっとも,私が少数派である可能性はあるが.