一つの認識描像

どんな現実なら論理が存在しうるか?

暑い.
夏は暑い.夏は毎年やってくるが,やって来るたびに暑いのである.
「夏は暑い」は,繰り返す.実はこの繰り返しは,現実の重要な性質かもしれない.

論理といえば,我々が採用する馴染みあるそれである.しかし,現実が異なれば異なる論理が見出されるかもしれない.これを調べようと思うと,論理という言葉を抽象化する必要がある.
論理というのは,2つの認識のつながりである.それは,何らかの意味で「認識1」から「認識2」への移行である.だから,論理みたいなものが構成されうる現実は,認識が順序付けられて接続されうるという特性をもつかもしれない.
その上,それは繰り返されなければならない.もしも何も繰り返されないのであれば,そこに構造を見出すことはとても難しい.さっき「A→B」と決めたものが,繰り返さない.定義というものを参照するのは,参照するたびに同じ定義を繰り返し見ることができなければ成り立たない.だから,何も繰り返さないなら論理は意味を成さないのかもしれない.よく考えれば,この世界はかなりの部分が繰り返しでできている.例えば,物理法則というものを見出すことができるのは,宇宙の現象が繰り返すからである.

以上を踏まえれば,論理みたいなものが別の現実にあるなら,「ある認識から別の認識への移行が存在しうる」ということと,「その移行のうち,繰り返すものが存在する」ということが必要なように思われる.とにかく,そういう現実があるとしよう.
さて,移行と言ったが,これは変化でもある.この世界における認識は変化する.もしも変化しないなら,変化していないことも認識できないからである.全世界が止まっても,自分の内的な時間経過認識が変化しているから,全世界が止まったということがわかるのである.だから,今目の前にある自明な認識は変化する.これほどまでに基本的な性質である「認識の変化」ならば,その変化という言葉を何らかの意味で抽象化することによって,他の現実にも比較的見出しやすいかも知れない.
私は最近よく,この現実を概念の理念の表現と言ったりする.変化という認識も,何か数段上の「理念」があって,その一つの現実表現が私のよく知る「変化」なのかもしれない.この変化に対応する理念をarlと呼んでいる.理念はardと呼んでいて,変化はarlのard breakである.
話が逸れてしまったが,とにかくarlが存在する現実で,さらにそれが何らかの意味で良く繰り返すならarl認識構造,つまり論理のようなものが存在できる.これは論理よりもずっと広く,繰り返しを緩くみることによって,この現実内にarl認識構造のbreakを多く見出すことができる.

世界は繰り返しを内包する.しかし,世界は不可逆である.